江戸の名所「浅草」⑥「奥山の見世物小屋」2「生人形」
細工物見世物の中で、幕末から明治にかけて登場し人気を博したのが「生人形」(いきにんぎょう)。まるで生きているかのようなリアルな細工(特にその「人肌」)をほどこした等身大の人形。その「生人形」のスーパースターと言えば、松本喜三郎。出身は熊本。生人形のもとといわれる、熊本市で盛んだった地蔵祭りの「つくりもの」で腕をふるい、嘉永7年(1854)、30歳の時に大坂難波新地で「異国人物生人形」の見世物を行い、大成功。翌年、江戸にくだり、浅草奥山で興業を行い江戸でも大評判を得た。
松本喜三郎の江戸でのデビュー作は「異国人物の生人形」。歌川国芳が描いている(「浅草奥山生人形」)が、浮世絵では生人形の魅力は伝わってこない(カラヴァッジョなら魅力を引き出せたかも)。やはり、人形そのものを見ないと。喜三郎は67歳で亡くなるまでに、数百体の人形を作っているが、空襲で焼かれたり、海外に流出したりして現在数十体ほどしか現存していない。明治政府は、西洋美術の彫刻はありがたがって保護したが、見世物小屋の人形には見向きもしなかったからだ。ただ、日本で彼の作品を全く見られないわけではない。
松本喜三郎の一世一代の大作は「西国三十三所観音霊験記」。明治4年(1871)から8年まで浅草で4年間のロングラン公演を行った。喜三郎はこの興行にあたって、10年の歳月をかけて準備し、150体以上の生き人形を出展したそうである。この見世物では「美濃国谷汲寺縁起」の中の観音様が巡礼の姿をかりて人を導く33場面の風景が人形で表現された。不思議な異国人や美しい乙女たちの人形が精巧に作られていて、江戸の人々の度肝を抜く。興行は一目生き人形を見ようとする人々で、連日押すな押すなの大人気。江戸中の若い娘が人形の着物やしぐさを真似したほどだったといわれる。この「西国三十三所観音霊験記」十八番六角堂に用いられた池之坊の人形が大阪歴史博物館にある。平成12年に高槻市内の民家から発見された。また「西国三十三所観音霊験記」三十三番谷汲山華厳寺の場のために作られた観音像(「谷汲観音像」)が喜三郎ゆかりの熊本市浄国寺にある。観音様が巡礼の姿を借りて、即ち観音様の化身である人間の巡礼が、迷っている人を導いたと言う様子として製作された。その姿から別名「巡礼姿観音」とも呼ばれる。熊本県指定重要文化財にも指定されているが、明治31年に大きな損傷のため、喜三郎の弟子である江島栄次郎が全面修理しており、栄次郎の作品ともいえる作品ではあるがその魅力は伝わってくる。
喜三郎の作風の特徴は、その徹底した写実主義と人肌の美しさ。世に出る前の熊本時代、モデルを用い、爪の長さまで測り寸分違わぬように作った人形と同じ格好をさせたモデルを一所の舞台に上げ、どちらが本物かを問うたと言われている。美術史上、人形製作に於いてモデルを用いたのは彼が最初とも言われる。又、その肌の質感は精密に彫刻された桐材に顔料や瑚粉を吹きつけまさに人肌そのもの。結髪から着物の意匠の素材選び、肌の色や質感までに徹底的にこだわって造られた彼の作品は、まさに生きている人形―生き人形、活人形(いきにんぎょう)と呼ぶにふさわしい。明治の彫刻家高村光雲は喜三郎を「日本近代美術の父」とまで評している。こんな彼の生人形を150体以上使った興業が行われた浅草奥山。世界にも例を見ない高い文化水準の「盛り場」だった。なにしろ、喜三郎は大学東校(現 東大医学部)の依頼で日本初の人体内臓模型を製作し、その仕事の素晴らしさにより学長より「百物天真創業工」の称号を与えられ、その作品はウィーン万博で好評を博したほどだったのだから。
(国芳「浅草奥山生人形」)
右にいる湯上り姿の長崎の丸山遊女が、手長、足長などの異国人物を眺めるという構図
(国芳「浅草奥山生人形」)部分
(国芳「当盛見立人形之内 粂(くめ)の仙人」)
(「西国三十三所観音霊験記」十八番六角堂に用いられた池之坊の人形)
(「谷汲観音像」)
(「聖観世音菩薩像」)
興行用に造られたものではなく、晩年の喜三郎が明治20年に観音像として来迎院に寄進したもの
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