「麦湯の女」

 今日は、よみうりカルチャー北千住で江戸時代の夏の食べ物、飲み物の講座。鰻、天麩羅、どじょう等の話が中心だったが、準備をしていて驚いたのは「麦湯の女」。麦湯とは麦茶のことで、ただこれを出すだけの店が多くの浮世絵として残っているのが不思議だった。明和の三美人とか寛政の三美人とかのように、特定の人物として描かれているわけではない。明和の三美人も笠森お仙や柳家お藤は多く描かれているが、蔦屋お芳などいくら探しても見当たらない。同じことは、寛政の三美人についてもいえる。高島屋おひさや難波屋おきたは驚くほど多く描かれているが、もう一人は芝神明前菊本のおはんだったり、吉原芸者の富本豊雛(とよひな)だったりとそもそも特定されていない。それと比べ、「麦湯の女」は有名な人物すら見当たらないのに、多くの浮世絵として残っている。

 麦湯の店がいかに人気があり、江戸の夏の風物詩にまでなっていたかは、天保に書かれた『寛天見聞記』にこんな記述がある。

「夏の夕方より、町ごとに麦湯という行灯を出だし、往来へ腰懸の涼み台をならべ、茶店を出すあり。これも近年の事にて、昔はなかりし也」

 また、江戸後期の風俗を記した『江戸府内風俗往来』にも同様の記述がある。

「夏の夜、麦湯店の出る所、江戸市中諸所にありたり。多きは十店以上、少なきは五、六店に下がらず。大通りにも一、二店ずつ、他の夜店の間にでける。横行燈に「麦湯」とかな文字にてかく。また桜に短尺(たんざく)の画をかき、その短尺にかきしもあり。」

 しかし、これだけでは人気の秘密はわからない。この店の特徴は、14~15歳の少女が一人で麦湯のみ(食事もなにもなく)を4文ほどで売るものであった点に特徴があったが、一体その少女たちのサービスのどこに人々をそこまで惹きつけた魅力があったのだろう。と思って『江戸府内風俗往来』を読み進むとこんな記述があった。

「紅粉を粧うたる少女湯を汲みて給仕す。浴衣の模様涼しく帯しどけなげに結び紅染の手襷程よく、世辞の調子愛嬌ありて人に媚びけるも猥(みだ)りに渡ることなきは名物なり。」

 ウーン、すごい!こんな色気と清純さをギリギリのところでバランスをとってサービスされたら、そりゃ世の男たちはこぞって出かけたに違いない。しかし、本当にこんな少女たちが江戸のあちこちに出没していたのだろうか。少なくとも、浮世絵からはそこまでの魅力は伝わってこないのだが。また、笠森お仙や難波屋おきたのような水茶屋の看板娘とは、何が違っていたのだろうか。夏の風物詩と言うから、それ以外の季節は何をしていたのだろうか。藤原緋沙子『麦湯の女―橋廻り同心・平七郎控』でも読んでみるか。

 (広重「高輪二十六夜待遊興之図」)麦湯売りの屋台も出ている

(渓斎英泉「十二ヶ月の内 六月門涼」)

(広重『狂歌四季人物』「麦湯売り」)

(国貞「夜商内六夏撰 麦湯売り」)

(豊原国周「会席浦梅親方 けい者おたが 唐物屋い旦那 麦湯おくめ 小頭の菊」)

なんとも派手派手な看板


(歌麿「当時三美人 富本豊ひな 難波屋きた 高しまひさ」)

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