江戸の名所「浅草」④「仲見世」と「二十軒茶屋」
明和三美人のひとり「蔦屋お芳」は浅草寺「二十軒茶屋」の看板娘。この「二十軒茶屋」、仲見世の仁王門(現在の宝蔵門)寄りの所に並んでいた。寛文(1661-73)以前からあったといわれ、もとは36軒の茶店があった。そのため三十六歌仙(すぐれた歌聖として崇拝された 36人の歌人の総称)にちなんで「歌仙茶屋」と呼ばれた。享保初め頃(1716年頃)20軒になり、天保以降は10軒になったが、名称は二十軒茶屋のまま明治18年まで続いたそうだ。
その様子は多くの川柳によってうかがえる。
「愛想のいいは茶代を置かぬうち」 「ああもあつかましいものかと二十軒」
接客態度がチップによって大きく変わっていたようだ。看板娘には、いつ行っても会えたわけではない。
「二十けん四つより前はなみの茶や」 「四つ前は老(おい)にけらしな二十けん」
昼四つ(現在の午前10時頃)までは美女はいないで、老女が接客を行っていたようだ。茶代はかなり高価だったよう。
「二十軒一度笑めば百とれる」
茶代が百文(現在の約1500円)とはびっくり。それでも、美女微笑みかけてもらいたくて、日に何度も通う連中もいたようだ。
「おおたわけ茶店で腹を悪くする」
二十軒茶屋は、始め参詣人の休憩のために設けられたが、やがて奥の方に座敷も設けられて、酒肴も供するようになる。また場所が吉原に近いため遊客も多かったため、美女の茶の接待で高額の茶代をとっていたのだろう。国貞「江戸名所百人美女 浅草寺」は茶屋の女を描いており、浅草寺の美女と言えば、茶屋の看板娘だったということだろう。
ところで、「明和の三美人」のひとり「蔦屋お芳」。いくら探しても、彼女を描いた浮世絵が見当たらない。「笠森お仙」や「柳家お藤」に比べると、人気はずっと落ちたのだろう。それに比べ浅草寺随身門前水茶屋の娘「難波屋おきた」は「高島屋おひさ」とならんで「寛政の三美人」の双璧だった。二人並んで描かれた浮世絵は歌麿が手を変え品を変えて描いている。難波屋おきたは歌麿好みの美女だったようだ。
(歌麿「腕相撲 西ノ方関 浅草難波屋きた 東ノ方関 両国高しまひさ」)部分
(二十軒茶屋 『江戸名所図会』)
(国貞「江戸名所百人美女 浅草寺」)
(歌麿「茶托を持つ難波屋おきた」)
(歌麿「高名美人六家選 難波屋おきた」)
(歌麿「二美人の首引き 西の方 なにわやきた 東の方 たかしまひさ 」)
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