江戸の名所「浅草」③「仲見世」と楊枝屋

 雷門を入ると、長さ約300メートルにわたってお店が続く(現在、通りの東側に54店、西側に35店、合計89店)。仲見世だ。その名前は、雷門(風雷神門)と宝蔵門(仁王門)の間(中→仲)にあった店に由来。店は、雷門の外にも、仁王門と本殿の間にもあったから、それらと区別するためのようだ。

 風雷神門と仁王門の間300メートルほどの参道には11の子院が並んでいたが、ここで商売ができるようになったのは江戸時代から。浅草寺近くの人々には浅草寺境内の掃除の賦役が課せられていたが、その代償として子院の軒先に床店(小屋がけの店)を出店する特権が与えられたのだ。これが仲見世の始まりで、貞享2年(1685)の頃といわれている。

 仲見世は、江戸時代も現代同様に浅草名物やお土産屋が軒を連ね、大変な賑わいだった。特に目立ったが楊枝屋。楊枝と言っても、つま楊枝ではなく房楊枝(ふさようじ)。柳、杉などの材木を使い、細く切り取った先端を金槌で潰して房状にしたものだ。もともとが清掃業だったため、掃除道具の余り材で作ることができる手軽な小物を扱う店が多かったのだ。ではこの房楊枝、いったい何に使ったのか?口中の清掃。つまり歯ブラシである。こんな川柳がある。

            「白い歯を見せれば売れる楊枝見世」

 江戸っ子が求めた美学は、スッキリとした活きのよさ。白い歯、さわやかな息へのこだわりが強く、異性に「口が臭い」といわれるのを何よりも恐れた。房楊枝と歯磨き粉(と言っても、砂や塩)でゴシゴシ磨き、口臭予防のために房楊枝の柄で舌苔(ぜったい)も除去した。浅草寺境内には多くの楊枝屋が軒を連ね、商売合戦は激しかった。店先に美しい女性を置いて客を呼び込んだりもした。その看板娘で有名だったのが、浅草奥山の楊枝屋「柳屋」のお藤。笠森おせん、蔦屋お芳と共に「明和の三美人」と称せられた。その店先に大きな公孫樹の木があつたので「銀杏娘」と呼ばれた。こんな俗謡もあった。

          「なんぼ笠森おせんでもいてふ娘にやかなやしよまい」

 絵草紙、双六、手ぬぐい、さらには人形までがつくられた笠森おせんには負けたと思うが、それでも柳家お藤も双璧の人気を誇る看板娘だった。

          「用事ないのに用事をつくり 今日も朝から二度三度」

             (「用事」と「楊枝」をかけている)

 「おおたわけ茶店で腹を悪くする」と同様の哀しく、おろかな男心がうたわれている。

 (仲見世 『江戸名所図会』)

(『江戸切絵図』今戸箕輪浅草絵図)雷門と仁王門の間に子院が並んでいるのがよくわかる

(広重「江戸名所 浅草金龍山境内の図」)

(細田栄之「浅草浅草寺仲見世」)

(一筆斉文調「二代目瀬川菊之丞 柳家お藤」)

(鈴木春信「鍵屋を訪れたお藤に茶を出すお仙」)

(鈴木春信「柳家見立三美人」)左が柳家お藤

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