江戸の名所「日本橋」⑤「十軒店」(じっけんだな)
ペリー来航以後、日本は尊王攘夷の嵐が吹き荒れる。例えば、1861年の「第一次東禅寺事件」。初代イギリス公使オールコックが、長崎から江戸へ陸路で(幕府は海路の利用を要請していたが)戻ったことに対して、「神州日本が穢された!」として、当時イギリス公使館の置かれていた高輪東禅寺を水戸浪士14人が襲撃した。しかし、国民全体が尊王攘夷思想に染まっていたかと言うとそうではない。1858年に来日したイギリス人オリファントが江戸の湯屋の前を通りかかった時のこと。湯屋の中から彼に気づいた人々が、物珍しい異国人見たさに素っ裸のまま、往来に飛び出してきてオリファントを取り囲んだという。翌年来日したホジソンも同様で、「男女の入浴者が入り乱れて・・・われわれが通り過ぎるのを見物するために飛び出してきた」と記している。これらは、当時の庶民の裸体に対するおおらかさ、羞恥心のなさとともに、異国人に対するあけっぴろげな好奇心の強さを物語っている。
北斎の描いた絵の中にも、異国人に対する庶民の旺盛な好奇心を示す絵がある。『画本東都遊』の中の「長崎屋」だ。江戸時代、長崎にあった出島のオランダ商館長のカピタンは、定期的に将軍に謁見するために、献上物を持参して参府することが定められていた。1609年から始まって、1633年からは毎年、1790年からは5年目ごとに1度行われ、1回の滞在は20日程度だった。そして長崎からやってくるカピタン一行が江戸滞在の際に利用したのが、日本橋本石町三丁目(現在の東京都中央区日本橋室町4丁目)にあった「長崎屋」だった。普段は薬種問屋だが、副業として宿泊所を営んでおり、一行が参府する春だけ阿蘭陀(オランダ)宿として利用されていた。ここは「江戸の出島」と呼ばれ、鎖国政策下の日本において、西洋文明との数少ない交流の場の1つとなっていた。カピタン一行の滞在中にこの商家を訪れた人物には、平賀源内、前野良沢、杉田玄白、青木昆陽などがいる。蘭学の祖と呼ばれる杉田玄白は、知人が長崎屋に宿泊していたオランダ人から譲り受けた医学書『ターヘル・アナトミア』を前野良沢らと翻訳して、『解体新書』を完成させた。長崎屋を訪れたのは、知識と交流を求める学者や文化人だけにとどまらなかった。多くの庶民が野次馬となってオランダ人を一目見ようとこの商家に群がった。その様子を葛飾北斎も描いたのだ。こんな川柳が残っている。
「長崎屋今に出るかと取り囲み」
葛飾北斎の江戸名所絵本『画本東都遊』の中の「長崎屋」を見ると、宿の窓からチラッとだけ見えるオランダ人を、老若男女たくさんの江戸っ子が見上げているのがわかる。
ところでこの長崎屋があった本石町三丁目と本石町二丁目のあいだ近くに「十軒店」と呼ばれる場所があった。その名は、江戸時代の初め、桃の節句・端午の節句に人形を売る仮の店が十軒あったことに由来する。毎年桃の節句や端午の節句になると人形の市が立ち、年の暮れには同所で破魔矢、羽子板を売るなどしてたいそう賑わった。特に雛市は江戸一の賑わいを見せ、「東都歳事記」の2月25日の項にも次のように書かれている。 「今日より3月2日迄雛人形同調度の市立 街上に仮屋を補理(しつら)ひ、雛人形諸器物に至る迄、金玉を鏤(ちりば)め造りて商う。是を求る人昼夜大路に満てり。中にも十軒店を繁花の第一とす。」
(1861年10月12日『絵入りロンドンニュース』ワーグマン画)
1861年5月「第一次東禅寺事件」 真夜中に襲撃され、寝間着姿で応戦する公使館員
(『ケンプエル江戸参府紀行』カピタン江戸参府 )
(葛飾北斎「日本橋本石町長崎屋」『画本東都遊』)
(『江戸名所図会』「十軒店雛市」)
(『東都歳事記』「十軒店冑市」)
(葛飾北斎「十軒店雛市」『東都遊』)
(国貞「江戸名所百人美女 十軒店」)
0コメント