江戸の名所「日本橋」④「八ツ見橋」

 愛知県の木曽川からほど近い水郷地帯で育ち、中学まで春から秋のシーズン中は毎週のように釣りをして過ごした釣りキチ人間(だった)にとっては水辺と言うのは心落ち着く空間だ。これまで30年間毎年のようにヨーロッパの街歩きをしてきたが、一番好きな街は、と聞かれたらおそらく「ヴェネツィア」と答えるだろう。アドリア海のラグーナ(干潟)に浮かぶ水の都。もともと小さな島の集まりだっただけに橋が多い。その数400とも言われる。実は江戸もこれに匹敵するほど橋が多かった。約350あったそうだ。さらにヴェネツィアにはない大きな魅力もあった。見晴らしの良さだ。迷路の中を彷徨い歩くようなヴェネツィアとはまるで異なる。例えば、日本橋を描いた浮世絵。ほぼすべての絵の中に、富士山と江戸城が描かれている。

 実は、日本橋の風景画に決まったように描かれているものがもうひとつある。「一石橋」だ。日本橋川に架かる橋で、日本橋の西側にある(東側にあるのが江戸橋)。北岸にある後藤庄三郎の金座と南岸の後藤縫殿助の呉服所との中間にあったことから、二つの後藤(五斗)を合わせて一石橋という橋名になったとも言われる(別説もある)。ここは俗称で「八見橋」と呼ばれた。その由来は、自分自身も含めて、八つの橋が見えたからということらしい。その八つの橋とは①一石橋②常盤橋③日本橋④江戸橋 ⑤呉服橋⑥鍛冶橋⑦道三橋⑧銭瓶橋。その位置関係は、『江戸名所図会』の「八見橋」の挿絵を見ればわかる。広重の「東都名所 八ツ見橋真景」はさらにわかりやすい。

 「一石橋」からの眺めを想像するには広重「富士三十六景 東都一石橋」と広重「名所江戸百景 八ツ見のはし」。一石橋の先には「外堀」が左右(南北)に交差し、奥は「道三堀」が続く。江戸城内に物資を運送する際に使用したという道三(どうさん)堀に架かるのは手前が「銭瓶(ぜにかめ)橋」。道三堀を掘った時、地中より銭の入った瓶を掘出したので橋の名となったともいい、又一説には、この辺で永楽銭の引換えをしたので、銭替橋といったとの説もある。

 ところで、『江戸切絵図』「御江戸大名小路絵図」をみればよくわかるが、常盤橋も呉服橋も「江戸城三十六見附」(江戸の城門の見張り番所)のひとつ(「常盤橋御門」、「呉服橋御門」)。当然、この橋が架かる堀は漁、釣りは禁止されていた。しかし、広重「名所江戸百景 八ツ見のはし」には、堀で四つ手網漁(おそらく白魚漁だろう)をする漁師が描かれている。広重が実際に目にした光景を描いたとすると、これも江戸と言う世界のおおらかさの一端だろうか。知らないうちに監視カメラが縦横に張り巡らされている今の日本社会より、江戸の監視体制はずっとゆるやかだったように思える(武士はともかく少なくとも町人にとっては)。そうでなければ、あれだけ多様でエネルギー溢れる文化は生まれなかっただろう。

 (広重「東都名所 八ツ見橋真景」)

(『江戸名所図会』「八見橋」)

(広重「名所江戸百景 日本橋雪晴」)

(北斎「冨嶽三十六景 江戸日本橋」)

(広重「富士三十六景 東都一石橋」)

(広重「名所江戸百景 八ツ見のはし」)

(『江戸切絵図』「御江戸大名小路絵図」)

(『江戸切絵図』「御江戸大名小路絵図」)部分

(江戸城配置図 外郭)

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