江戸の名所「日本橋」③「芳町」

 江戸唯一の公認の遊里と言えば吉原。市中の良風美俗を乱さぬようにと、市街を外れた浅草寺裏手の辺鄙な場所にあったが、吉原はもともとそこで開業したわけではない。営業が始まったのは、元和4年(1618)。当時市内各所に散在していた私娼を一か所に集めて管理する公許の遊里として「吉原」は建設された。もともとそのあたりは、葦や茅が生い茂る「ヨシ原」だったため、人々はここを縁起の良い字に変えて「吉原」と呼ぶようになった。しかし、明暦の大火(1657年)後に、浅草寺裏に移転させられてしまい、新しい廓を「新吉原」、ここを「元吉原」と呼ぶようになる。そして吉原移転後は、芝居小屋や芝居茶屋が立ち並ぶ芝居町(堺町、葺屋町)になるのである。

 200年間芝居町として繁栄を続けるが、天保の改革(1841~43年)で芝居小屋(中村座、市村座)は浅草に移転させられ、それに伴って芝居茶屋もなくなってしまう。それで、このエリアは廃れてしまったかと言うとそうではない。幕末には江戸いちばんと言われた芸者をかかえる遊郭に生まれ変わったのだ。どういうことか。

 江戸最大の岡場所であった深川には、天保の頃には261人の芸者(男芸者含む)、472人の遊女がいたと言われるが、天保の改革で岡場所は取り潰しとなり(1842年)、深川の芸妓も住み替えとなった。この時、柳橋とともに芝居町の後に移ってきたのである。深川時代の気風の良さと、芝居町の名残を受け継いだ雰囲気が大いに受けたというわけだ。国貞「「江戸名所百人美女 よし町」の三味線を片手にした粋な芸者の立ち姿が、その雰囲気をよく伝えている。  ところで、芳(よし)町(正式名称:堀江六軒町)は、元禄時代からある場所として有名だった。こんな川柳がある。

             「よし町は 狭いところで 繁盛し」

 「狭いところ」は実は、町のことだけじゃなくて男性の体のある場所も指している。芳町は江戸の代表的な男色地帯で、多くの陰間(かげま)茶屋(「陰間」=男の客を取る男)があったのだ。『男色細見三之朝』(明和5年【1768年】)によれば、13軒で67人の陰間をかかえていた。陰間は15~16歳までの少年がほとんどで、振袖・羽織を着て、上方言葉を話すのが特徴だった。この地に陰間茶屋が多かった理由は、芝居町と密接に関係。陰間の多くは歌舞伎役者、特に女形(おやま)を目指す少年だったのだ。男性に抱かれることで女性らしさを学ぶことができる、として売春は女形修行の一環と考えられていたらしい。そもそも「陰間」という名も、舞台に出る前の修行中の少年役者が「陰の間の役者」と呼ばれており、これがやがて売春を商売にする少年を指す「陰間」という言葉になっていったのだ。

 あのレオナルド・ダ・ヴィンチは男色行為の疑いで二度告発されているが、ヨーロッパでは男色は厳しく罰せられていた。例えば、1502年のフィレンツェの法律では成人は去勢、再犯の場合は片足を斬り落とす、という厳罰が課せられた。しかし、江戸では男色というのは同性愛者に限ったものではなく、「趣味人のたしなみ」とも考えられていたようで、粋人や文化人らも陰間を買いに行った。男色案内書『男色細見』の著者は江戸時代を代表する鬼才・平賀源内だったし、十返舎一九の代表作であり、滑稽本の代表作でもある『東海道中膝栗毛』の主人公弥次さん喜多さんも、江戸に出てくる前は男色関係にあった。もともと弥次郎兵衛は駿河国府中(現・静岡市)の裕福な商家出身で、そのころ馴染みの陰間だったのが喜多八なのだ。

 いずれにせよ江戸の性に関する考え方は、今とはあまりにも大きく隔たっている。言えるのは、陰湿さ、暗さとは縁遠かったという事。どこかからっとしている。それも江戸らしさのひとつと言えるだろう。

 (『江戸男色細見菊の園』) 客の待つ茶屋へ向かう陰間とマネージャー役の「金剛」

(『絵本吾妻抉』) 芳町の陰間茶屋

(『かくれ閭』) 着飾る芳町の陰間たち  どう見ても男とは思えない

(国貞「江戸名所百人美女 よし町」)

芸者お決まりの黒留袖を着て懐紙をくわえながら、こちらを眺めている。襟元や裾から見える襦袢の赤が色っぽい。だらりと垂らした紫色の帯も、芸者らしい粋な姿。

(『江戸名所図会』「堺町葺屋町戯場」) 「戯場」は「しばい」と読む

「よし町」の場所がよくわかる。堺町葺屋町のすぐ隣の通り(図の右下に「よし町」と書かれている)。

(落合芳幾『東海道中栗毛弥次馬』「石薬師」「庄野」)

この二人がかつて陰間とそのなじみの客だったとは。

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