江戸の名所「日本橋」②「二丁町」
江戸時代、二大「悪所」とされる場所があった。遊郭と芝居町。芝居町は日に一千両が動くと云われ、芝居小屋を中心に芝居茶屋が並ぶ歓楽街だった。江戸時代、幕府から権利を与えられた劇場だけが櫓(やぐら)を上げて歌舞伎の興行をすることができた。江戸の公許の劇場は中村座、市村座、森田座の三座(当初は山村座を含め大芝居四軒だったが、「絵島・生島事件」で山村座が取り潰された)。このうち中村座は堺町、市村座は葺屋町にあって地続きだったので俗称「二丁町」(現在の中央区日本橋人形町)。また界隈にはこのほかにも小芝居の玉川座、古浄瑠璃の薩摩座、人形劇の結城座などが軒を連ねていたので、この一帯には芝居茶屋をはじめ、役者や芝居関係者の住居がひしめき、一大芝居町を形成した。その賑わいぶりは多くの浮世絵によって知ることができる。この二座に比べると木挽町(現在の中央区銀座6丁目)にあった森田座の規模はやや劣った。これら三座は天保12年(1841)にまとめて浅草(猿若町)にうつされるまでその地で200年間繁栄した。
当時の芝居の楽しみの大きさ、特に女性の芝居見物に対する思い、あこがれの大きさは、今泉みね(幕府に仕えた蘭方医桂川家の幕末の7代目桂川甫周の娘)の聞き書き『なごりの夢』の中の「あのころの芝居見物」を読むとよくわかる。
「お芝居といえばずいぶんたのしみなもので、その前夜などはほとんど眠られませんでした。一度は床に入ってみますけれど、いつの間にかそうっと起き出して化粧部屋にゆきます。百日蝋燭の灯もゆらゆらと、七へんも十ぺんもふいてはまたつけ、ふいてはまたつけ大へんです。やがて七ツどき(午前4時頃)にもなりましょうか。みんなを起こしてそれからが公然のお支度になります。それ着物それ帶といったように、皆の者はあちらにゆき、こちらにゆき、立ったりすわったりにぎやかなこと、にぎやかなこと。そのうち供まわりの方の支度もできまして、いよいよ浅草へ参ります。大勢の時は屋形舟でございます。船つき場へはちゃんときまった茶屋からの出迎えがおりますが、手に手に屋号の紋入りの提灯を持って、「ごきげんよう、いらっしゃいませ」といかにも鄭寧(ていねい)に、手を添えて船から上げてくれます。(中略)茶屋にはまた粋な男や女が、夏なら着物も素肌にきて、サアッと洗い上げたといったような感じのする人達がい並んでいんぎんに一同を迎えて奥座敷か二階かに案内いたします。ここでしばらく休みますが、もうすっかり芝や気分に浸っていますと、カチーンカチーンときの音、そら木がはいった、皆の胸はとどろきます。一瞬は思わずいずまいを正しますが、急にまたガヤガヤ屋鳴り震動がはじまって、「時がまいりましたから」と迎えが来てつれてゆかれます。実にその辺の気配がいいのです。客は幾組か知れませんのに一向混雑もなく、きれいに静かにゆくところのたくみさ。茶屋の焼印のあるはきものも、身をかがめてはかせるほどにして気をつけてくれるそのあつかい振り、何から何までほんとに気持ようございます。芝居も芝居ですがそれも忘られぬ一つです。」
(広重「東都名所 二丁町芝居繁栄之図」)
(広重「東都名所 二丁町芝居ノ図」)
(奥村政信「堺町葺屋町芝居町大浮絵」)
(国貞「踊形容江戸絵栄」)
(北斎「東都二丁町芝居」)
客の出入り口になる木戸口。右手に建つ二人の男は「木戸芸者」。配役を読み上げたり、役者の声色などで客を集めた。看板の前に腰かけている頬被りの男は「木戸番」。
(国直「春告鳥」)芝居茶屋の二階座敷
芝居茶屋は待合や料理屋の役割も兼ね、役者を呼ぶこともできた
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