江戸の名所「日本橋」①駿河町
徳川家康が建設に着手した江戸最古の町と言えば日本橋地区。徳川家康が関八州の主人公として江戸に乗り込んできたのは天正18年(1590)8月のこと。奥州街道筋、今の室町3丁目から常盤橋までの間に、とりあえず城下に江戸の市街を開くため、関西の商人を呼び寄せ商店を開かせた。関ヶ原の戦いで家康が勝利をおさめ、慶長8年(1603)江戸に幕府を開くことになると、諸大名に命じて人夫を出させ、神田山の台地を切り崩して日比谷入江の埋め立てを行い、そこに新しい町屋を形成することになった。これが今の日本橋京橋一帯の地である。そして、江戸が発展するにつれて、日本橋は江戸随一の商業地になっていった。
その中心は、日本橋の北側。有名だったのは駿河町の越後屋(現在の三越の前身)と、大伝馬町の大丸。とくに越後屋は駿河町の北側と南側に店舗を持ち、北側の江戸本店間口は35間(約68m)、南側の店舗は21間(約42m)もある大店だった(伊勢国松坂出身の三井高利が延宝元年【1673】に江戸本町一丁目(現在の日本銀行新館辺り)に越後屋を開店した当初は間口9尺の小さな店だった)。この越後屋は「現銀(後払いではなくその場で商品都銀を交換する)」(当時は「節季払い」と言って年に2~3回、まとめて支払いをする方法が一般的だったので、価格に利息が含まれており、ただでさえ高い呉服がより高額になっていた。これを現金による即日払いにすることによって、利息の分だけ安く呉服を売ることが可能になった)、「掛け値なし(定価販売)」(当時は今のように商品に値札がついておらず、定価という概念が無かったので、店員と話し合って値段が決まった。当然、口の上手い店員に騙されて高く買わされることもあった)、「店先売り(訪問販売ではなく店頭で売る)」(これで一見さんでも気軽に立ち寄って呉服を買うことができるようになった)という、現代では当たり前の商法を最初にやった。さらに、より多くの人に告知するために「引札」(チラシ)を作って配布もしたが、これは日本の宣伝広告の始まりと言われている。越後屋が急成長を遂げた理由はまだある。急ぎの客には二刻(4時間)で着物をあつらえたり、反物を切り売りしたり、端切れを安く売ったりと、それぞれの客のニーズに合わせたサービスを提供したのだ。こうして多くの人々に愛される大店に成長した越後屋は、延享2年(1745)には金23万583両、一日平均600両という売り上げも記録。この収入、百万石を誇ったあの加賀藩をも上回った数字なのである。
「駿河町畳の上の人通り」
ところで、「駿河町」の名前は、駿河の国にある富士山が見えることに由来するが、それだけなら「富士見町」でもよかったはず。江戸から富士山が見える場所には、よく「富士見」の名が付いている。なぜ、この町があえて「駿河町」と呼ばれたのか?それは、この町の通りに立って南西の方角を望むと、真正面には江戸城を、その背景には富士山を眺めることができたからだ。駿河の国は、日光の権現様こと初代将軍・徳川家康が生まれた地でもあり、江戸城と富士山とを一緒に望むことができる駿河町は江戸っ子にとって特別な場所だったのだ。
(国貞「駿河町越後屋 店頭美人図」)
(広重「東都名所 駿河町之図」)
(広重「名所江戸百景 するがてふ」)
(北斎「冨嶽三十六景 江都駿河町三井見世略図」)
(二代広重「江戸名所四十八景 するが町」)
(奥村政信「駿河町越後屋呉服店大浮画」)
(歌川豊春「浮絵駿河町呉服屋図」)
(国貞「江戸名所百人美女 駿河町」)
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