江戸の名所「深川」⑥木場

 木場とは、文字通り材木置き場のこと。材木問屋が集まっている場所だから、材木の倉庫がずらりと並んでいる場所を想像しがちだが、それは後世の姿で、江戸時代の木場はそんなせせこましい場所ではなかった。『江戸名所図会』にも「深川木場」として載っている江戸の名所だった。見渡せばあちこちに材木置き場や材木商の大きな家が見えるし、縦横に走る水路の所々には丸太が浮かび、その上で鳶口を持った男たち(「川並(かわなみ)」)の働く姿も見えた。しかし、全体としては、松や柳の木が繁った情趣溢れる場所で、大小150もの橋が架かる水郷だった。貯木が川魚のいい漁場を作り出していたようで、『江戸名所図会』にも釣り人が何人も描かれている。自分にとって水郷木場の雰囲気を一番感じられるのは『絵本江戸土産』の「深川木場」。そこではこう説明されている。

「この辺、材木屋の園(その)多きにより、名を木場という。その園中(えんちゅう)おのおの山水のながめありて風流の地と称せり」

 では、この深川木場はどのようにして誕生したのか?徳川家康の入府以来、江戸城や大名屋敷、寺社仏閣や町家の造営で、材木の需要は膨大なものがあった。江戸初期、材木商は、江戸中心に近く且つ水運に都合のよい、日本橋材木町を中心に南茅場町、木挽町などに店を構えていたが、大火の際に、その木材が延焼の原因となるという理由で、幕府は、寛永18年(1641)材木置場を隅田川対岸の永代島(佐賀町あたり)に集めることを決めた。ここが木場(のちに元木場)と称され、この地名の起こりとなる。さらに、元禄14年(1701)、市街地の拡大と材木需要のさらなる増加に伴い、木場は少し東よりのこの地に移転し、9万坪とも言われる広大な敷地を持つ深川木場が誕生した。15名の材木問屋が協力し土地を整備し、土手や掘割を作り、材木商にとっては理想郷ともいえるような町を作り上げたのである。

 材木商は、呉服商、両替商と並ぶ江戸の花形商人であり、火事の繰り返される江戸においては、その建築資材供給元として莫大な利益を生む商売だった。殊に紀伊國屋文左衛門は、柳沢吉保への賄賂で御用商人となり、度重なる火事の後の再建工事や、上野寛永寺の普請などで巨額の富を得た。こうした豪商達が、途方もない金額をつぎ込んで深川の料亭で接待を行なったため、花柳界は瞬く間に隆盛し、辰巳風と呼ばれる独特な文化の形成に大きく貢献した。深川文化を支えたのは、こうした木場の材木問屋の大旦那衆だったのである。ちなみに、富岡八幡宮には、江戸時代に紀伊国屋文左衛門が奉納したと伝えられる宮神輿があったが、関東大震災で建物といっしょに焼けてしまった。

 昭和44年、木材関連業者が現在の新木場へ移転し、約300年間続いた木材産業の町としての木場は、その歴史を閉じることになる。そして木場の移転や衰退とともに、深川の花街の灯も、あっという間に消えていってしまった。

 (広重「絵本江戸土産 深川木場」)

(『江戸名所図会』「深川木場」)

(広重「名所江戸百景 深川木場」)

(『東都歳時記』八月十五日 富賀岡八幡宮祭礼)

(北斎「深川八幡祭礼」)

(小泉癸巳男『昭和大東京風景百図絵版画 深川区・木場の河筋(新版)」1940年)

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