江戸の名所「深川」⑤うなぎ

 「江戸前」とは、今では生きのいい魚を使った握りずしを指すが、江戸時代にこの言葉が使われ出したころは、江戸城前面の海や川でとれる美味な魚を指していた。そして、日本橋魚市場の魚問屋の間では、羽根田から深川までの間で獲れる魚を「江戸前」と称していた。

「江戸前鰺(あじ)、中ぶくらと云。随一の名産也。惣じて鯛、平目にかぎらず、江戸前に漁(すなどる)を、前の魚と称して、諸魚共に佳品也」(『続江戸砂子』享保20年【1735年】)

 それがやがて、「江戸前」と言えば「鰻」を指すように変わっていく。鰻の蒲焼を売る店が、鰻を江戸前の名物に仕立て上げ、「江戸前大蒲焼」を看板にして蒲焼を売り出していくなかで、江戸前鰻のブランド化(今の「関あじ」、「大間まぐろ」と同様)が始まったのである。そして江戸前以外で獲れた鰻を「旅うなぎ」といって区別した。あの平賀源内も、江戸前鰻が旅鰻よりはるかにうまいことをこんな風に表現している。

「吉原へ行き、岡場所へ行くにも皆夫々の因縁づく、よいも有り、悪いもあり。江戸前うなぎと旅うなぎ程旨味も違はず」(『里のをだまき評』安永3年【1774年】)

 『近世職人尽絵詞』(文化2年【1805年】)に描かれた「江戸前大蒲焼」の看板を出した蒲焼屋では、店の入口で蒲焼を焼いている女性が、次のように言って客を誘っている。

       「わらわがもとには、旅てふ物は候らはず皆江戸前の筋にて候」

 江戸前鰻と旅うなぎでは値段に大きな差があったから、安い旅うなぎを江戸前鰻と称して儲けようとする悪質な店もあったようだ。

            「江戸ならば江戸にしておけ安鰻」

 それでも、土用丑の日のように需要が激増するときは江戸前鰻だけでは足りず、旅うなぎにも頼らざるを得なかったようだ。

            「丑の日に籠でのり込む旅うなぎ」

 特に人気のあったのが浅草川(隅田川の吾妻橋から下流の別称)や深川で捕れた鰻。

「江戸にては浅草川・深川辺の産を江戸前と称して上品とし、他所より出たるを旅うなぎと称して下品とす」(『本草綱目啓蒙』享和3~文化3年【1803~1806年】)

 『江戸名所百人一首』(近藤清春 享保16年【1731年】頃)には、深川八幡宮の門前で「めいぶつ 大かばやき」の看板を掲げた蒲焼店の絵が載り、客が床几(しょうぎ)に腰かけて酒を飲みながら蒲焼を食べている様子が描かれている。鰻の名産地深川の八幡宮の門前には蒲焼屋が何軒も現れる。

 「深川うなぎ 大きなるは稀なり。中小の内小多し。はなはだ好味なり」(『続江戸砂子』享保20年) 「深川鰻 名産なり。八幡宮門前にて多く売る」(『江戸惣鹿子名所大全』寛延4年【1751年】)

 やがて、蒲焼に飯を付ける「付けめし」を始めることで蒲焼屋はさらに繁盛し、市中いたるところ に蒲焼屋ができていった。         

             「団子よりうなぎのはやる浮世なり」

 その過程で、付けめしにしていた飯を蒲焼と一緒に盛り合わせて出すようになる。「鰻飯」の誕生である。

 (国芳「江戸前大蒲焼」)

(『江戸名所百人一首』深川八幡宮の門前の蒲焼屋)

(『近世職人尽絵詞』江戸前大蒲焼の店)

(『女嫌変豆男』看板に「つけめしあり」と書かれた蒲焼屋)

(『明烏後正夢』蒲焼屋の二階)付け飯が櫃(上に茶碗)に入れて出されている

(『新版江戸府内流行名物案内双六』 「ふきや町がし うなぎめし」)

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