江戸の名所「深川」④「平清」と「二軒茶屋」

 「七場所」(ななばしょ)とはどこのことか?江戸深川にあった七つの岡場所をさす。仲町・新地(大・小)・石場(古・新)・櫓下(表・裏)・裾継(すそつぎ)・佃(俗に「あひる」)・土橋(つちはし)。この中の土橋の永代寺門前に「平清」(ひらせい)という料理屋があった。この屋号は、主人の平野屋清兵衛の名による。

 商人などの町人階級が経済力をつけるようになった明和年間(1764~72年)ころ、接待や会合に使われる場として、貸席に高級料理がつく料理茶屋が登場する。幕府の役人や各藩の外交担当を務める「留守居役」が交渉の席を設けるために利用したり、文化人が狂歌、書画の会を開いたりするようになると、料理だけでなく、座敷や庭にまで贅を尽くすような料理茶屋が次々とできたが、その双璧といわれたのが、浅草山谷の「八百善」とこの深川の「平清」だった。「平清」は瀟洒な庭や風呂を備えた設備の豪華さや料理の質の高さで知られていた。

             「平清の奢りのすえもうしほなり」

 この有名な川柳は、「平清」を平清盛に見立てて、平家一門が奢った果てに壇の浦の潮流の藻くずと消えたことことと、平清の会席料理の最後に鯛の潮汁(うしおじる)が出されることをかけた句で、平清の料理の贅沢さがうかがえる。

 深川の料理茶屋は、江戸湾の魚介類や多種類の川魚を潤沢に得られて、江戸前の味を売り物にしていたが、いずれも遊女や芸者をよんで遊興のできる揚茶屋を兼ねていたことも大きな魅力だった。さらに、人気の秘密がもうひとつあった。

             「船頭のしこなして行く二軒茶屋」

          *「しこなす 為熟す」物なれた態度で接する

 「二軒茶屋」とは、富岡八幡宮境内にあった料理茶屋「松本」、「伊勢屋」のことだが、茶店のすぐ裏に船を着けそのまま案内を受けて屋敷内に入り込めた。つまり、深川は船着きがよかったのも人気の理由だったのである。

 『江戸名所図会』の「二軒茶屋雪中遊宴図」は広い庭一面の雪に戸を開け放して、火鉢と料理を囲んで雪見の宴を楽しむ様子が描かれている。

「此の地は、江都東南の佳境にして、月に花に四時の勝趣多かる中に、取りわきて初雪の頃などには都下の騒人ことに集い来つつ、亭中の静閑を賞し一杯を酌みかはしては酔興のあまり、冬籠もる梅の木の下、秋ならば尾花苅りたき、一夜の夢を結ぶもまた多かりぬべし」

 ただし、庶民が気軽に行ける場所ではなかった。

             「二軒茶屋肝を潰して払ひをし」

(『江戸名所図会』「二軒茶屋雪中遊宴図」)

(広重「江戸高名会亭尽 深川八幡前 平清」)

(広重、豊国「東都高名会席尽 深川土橋平清 平の清盛」)


(落合芳幾「春色三十六会席 深川 平清」)

(豊原国周「開化三十六會席深川 平清」)

(勝川春章「深川八景 二軒茶屋ノ暮雪」)

(『絵本続江戸土産』二軒茶屋裏の船着き場)

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