江戸の名所「深川」②勝海舟の正妻おたみ2

 勝と君江(おたみ)の三度目の出会い。柳島(本所の横十間川と北十間川が出会う場所)の梅林にぶらぶらと梅見にやってきたときのこと。

「外には、人もなく、暫く、この辺を歩いていたが、ふと、気がつくと、百姓家から聞こえてくるかたことと機を織る音が、しーんとした梅林の、一輪二輪あちこちに咲く閑寂さの中へ溶けて行く趣を感じて、麟太郎の足は、なんという事なしに、その音のする方へ引かれて行った。そして、その煤ぼけた障子の内に、君江を見たのである。」(子母沢寛『勝海舟』)

 麟太郎からすれば、そのような百姓家の縁側で深川の芸者が糸車を回しているのは奇妙に感じられたことだろう。

「本所元町の炭屋の娘、辰巳芸者の君江。江戸一おきゃんであり、粋であり、張りが強く、伊達を引いて、時にはどの妓(こ)も、どの妓も天馬空を行く面影さえ見せると云われる矢倉下のお羽織さんとしたことが、こんなところで糸車を廻しているとは何事か。」

 彼女がこの伯母の家に身をかくしたのは、その年の正月のお座敷でのいざこざが原因だった。客は深川の火消のもの。その座敷で、見るに見かねる出来事が起きた。頭手合から堅く言いつけられているにもかかわらず、ある三ん下の鳶人足が悪ふざけ。それが度を超して、杯洗に酒をついで、若いやさしい妓にこれを飲めという。その妓がなんと詫びても許さない。とうとう口を割って注ぎ込もうとする。それを見た君江が、いきなり、その三ん下の頬っぺたを殴りつけ、盃洗をひったくって、その酒を奴の頭から、ざーっと引っかぶせたのだ。そして、その妓の手を引くとものも云わずに引き揚げてしまった。

 大変な騒ぎになったが、結局「処の顔役が中へ入って、一番組の半纏(しるしもの)を汚した申し訳に、君江を一ヵ年箱止めにする、その代わり、来年からの役座敷は火消の方でも決してそんな事はしねえということでまとまった。」

 ところが、酒をかぶせられた三ん下が、これからという身を兄手合の前で恥をかかせられた腹いせに君江の髪を切ってやる、とさわいでいるとの噂が耳に入り君江はいまいましかったが伯母の家に身をかくしたというわけだ。

「『お前さん怖いんだねえ。そんな人足へ酒をぶっかけるなんて』

   『ごらんなさいまし。やっぱり、そのような事をおっしゃいましょう』

 『ところが、本所もんは、そんなのが好きでねえ。ましてや』

 『ほほほほ。勝麟太郎はでございましょう』

 『当った。お前さん、八卦も見るかえ』」

 君江が両親のところへ行くついでに麟太郎の屋敷を拝見したいというと麟太郎はこう答える。

「飛んでもねえと麟太郎は、四十俵の小普請(むやく)の住んでいる家だよ、ましてや本所名代の貧乏勝、拝見もなにもあるものか、お前さん一度で、ぞうーっとして終うよ。いいえ、深川のものはその貧乏が何より好き、まして、あたいは、と君江のいうのを、麟太郎、手を上げて押えて 

 『叶わねえお前さんには』 

と、頭を下げた。」

 (歌麿「深川の雪」)  縦2m、横3.5m近くにも及ぶ浮世絵史上最大の掛軸画

(歌麿「高名美人六家撰 辰巳路考」)

深川の人気芸者、路考を描いたもの。髪に手を添える仕草が艶めかしい美人画。右上の判じ絵は、「龍」=「たつ」、蛇=「み」、舟をこぐ櫓=「ろ」、線香=「こう」で、「辰巳路考」と読む。

(豊原国周「開化三十六會席 深川 松本」)

三味線を持っているのが深川芸者。豪華なかんざしを挿し、なにかささやいているのは遊女。芸者は遊女の邪魔をしてはいけないから芸者に比べ質素ななり。

(広重「名所江戸百景 柳しま」)中央の川が北十間川、絵の下の川が横十間川、左上の山は筑波山。隣接する料亭は「橋本」。ここは歌舞伎『於染久松色読販』(おそめひさまつうきなのよみうり)の舞台にもなっている。

(広重「東都名所 柳島妙見堂」)

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