江戸の名所「深川」①勝海舟の正妻おたみ1

 いつからだろう、江戸の深川について詳しく知りたいと思うようになったのは。やっぱり、「辰巳芸者」(深川芸者。深川は江戸城から見て南東=辰巳の方角にあるためこう呼ばれた)に魅かれてだろう。粋で気風がよく人情に篤い。「芸は売っても色は売らない」を信条とする。そして、興味関心の決定打になったのは、大好きな勝海舟の正妻「お民」が元深川芸者と知ったため。「妻妾同居」などという現代の感覚からは理解できない私生活を送っていた勝。勝のお気に入りの「糸」は勝の身の回りの世話をし、勝の臨終にも付き添った。糸は我が子・逸を「お嬢さん」と呼び、正妻の民も自分の娘のように育てたという。そして、糸の墓は、青山墓地の勝家の墓にある。また、「かね」は大所帯の勝家の台所方を一手に引き受けていた。「糸」と「かね」は毎朝二人そろって民の部屋の廊下に手をつき、朝の挨拶をするのが日課だった。勝は民との間に4人、妾との間に5人子供をもうけたが、民は異腹の子供も実子と分け隔てなく可愛がったという。

 こんな民を子母沢寛「勝海舟」の文章を借りて描いてみたい。最初に会ったのは、島田虎之助から直心影流の免許皆伝を受け、その喜びを知らせようと両親がいる本所へ戻る途中でのこと。両国広小路の見世物小屋の前で、一人の芸者が勝の胸元へ突き当たった。その芸者は3人連れで、そのなかの一番若いのが君江(お民)だったのだ。その時、勝は気まりが悪く、逃げるようにして駆け出す。しかし年増女の笑い声に足を停めて振り返る。

「三人の中の、一番若い女ただ一人が、じっとこっちを見ていた。・・・女は、にっこりして頭を下げたが、それっきりで、すぐに年上の女たちの話の中に交って行って終った。」

 二度目の出会いも偶然。急な雨が激しくなり、切羽詰まって炭屋の庫に飛び込んだ。その家の主に勧められて店の中に入ると、母親と一緒に出てきたのが君江だった。そこは君江の実家だったのだ。急ぎの用があって、お座敷の隙を見て家に入り、すぐに深川へ戻ろうとしたところ急な雨に足止めを食っていたのだ。

「深川というからには、いや云わなくても、こちらは武骨者だが本所もんだ、姿かたちの拵えで、女が矢倉下のものだ位はわかる。一口に粋な深川というが、この女は、その粋というよりは、何処となくすがすがしい、気持ちのしっかりした人ずれのしないものを感じさせた。」

 この時も、「いつぞやはとんだ粗相をいたしまして」と両手をついて詫びられるだけで、特に何事もなく終わる。関係がぐっと近づくのは、三度目の出会いから。ところで、「矢倉下のもの」という表現が、最初読んだときはさっぱりわからなかった。「矢倉下」は「櫓下」のこと。つまり「火の見櫓下の岡場所」。渓斎英泉に「江戸名所合 深川櫓下」という作品があるが、深川芸者と火の見櫓が描かれている。また、広重の「東都名所 永代橋全図」のなかにも、深川新地の街並みの中に突出して高い建築物があるがそれが深川の火の見櫓である。

 (広重「東都名所 永代橋全図」)

(広重「東都名所 永代橋全図」部分)


(渓斎英泉「江戸名所合 深川櫓下」)

この火の見櫓は永代寺門前(今の門前仲町交差点の北東の方角に清澄通りに面した場所)にあった

(国貞「江戸名所百人美女 深川八幡」)撥を歯で噛むしぐさは、男勝りの気風の良さのあらわれ

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