『レ・ミゼラブル』③「プチ・ジェルヴェ事件」

 『レ・ミゼラブル』の長大なストーリーは、ジャン・ヴァルジャンを執拗に追い続けるジャヴェール警部とそれからのジャン・ヴァルジャンの逃走によって展開していくが、その原因となったのは「プチ・ジェルヴェ事件」。ジャン・ヴァルジャンがミリエル司教と出会った直後のできごと。

 ミリエル司教と出会い、ジャンヴァルジャンはどんな精神状態になったのか?喜び、解放?違う。混乱、不安だ。 

「自分の心のなかになにが起こったのか、よくわからなかった。あの老人の天使のようなおこないや、やさしい言葉に抵抗していた。『りっぱな人間になると、わたしに約束してくれましたね。あなたの魂を、わたしはあなたから買い受けます。あなたの魂をよこしまな心からひきはなして、神に捧げます』この言葉がたえず心に浮かんでくるのだった。彼はこうした神のような寛大さに、われわれの心のなかの悪のとりでといってもいい傲慢さを対抗させた。あの聖職者のゆるしは、いままでに自分の心を揺り動かしたいちばん激しい襲撃であり、いちばん恐ろしい攻撃である、この寛大さにさからえば、自分のかたくなな心は決定的になってしまうだろう、いまここで負けてしまっては、あれほど長年のあいだ、他人の仕打ちによって自分の心が満たされてきた憎悪の念、自分の気に入っているあの憎悪の念を捨ててしまわなければならないだろう、こんどこそは、勝つか負けるかの勝負だ、戦いが、大がかりで決定的な戦いが、自分のよこしまな心と、あの人の善良さのあいだではじまったのだ」 

「徒刑場と呼ばれるみにくい暗黒な場所から出てきたときに、司教は彼の魂に痛みを与えたのだ。強すぎる光が、暗闇から出てきた彼の目に、痛みを与えたようなものだ。・・・だしぬけに太陽が昇るのを見たフクロウのように、この徒刑囚は徳の光に目がくらみ、盲目同然になってしまったのである。」(『レ・ミゼラブル』)

 こんな混乱した精神状態の中で事件は起きる。夕暮れ時、ジャン・ヴァルジャンは人気のない野原の藪の陰で腰を下ろして物思いにふけっていた。そこへ10歳ぐらいのサヴォワの少年(冬にサヴォワから出稼ぎにきた煙突掃除の仕事をする少年)プチ・ジェルヴェがやってきた。小銭でお手玉遊びをしていたが、しくじって1枚の40スー銀貨(肉体労働者の平均時給が2スーだったから、現在の約1万円5千円)がジャン・ヴァルジャンの足もとに転がり落ちてしまう。ジャン・ヴァルジャンはその上に足をのせた。少年は硬貨を返してくれと頼むが、ジャン・ヴァルジャンは聞き入れない。少年は泣きじゃくりながら姿を消した。

 なぜ、ジャン・ヴァルジャンはそんなことをしてしまったのか?

「盗んだのは彼ではなかった。人間ではなく野獣が、習性と本能とによって、うっかりとあのお金の上に足をのせてしまったのだ。」(同上)

 しかし、我に返った彼は少年を見つけ出して金を返そうとつとめる。少年が姿を消した方角に走り出す。「プチ・ジェルヴェ!プチ・ジェルヴェ!」。あたりを見まわしたり、呼んでみたり、叫んだりしながら。しかし、見つからない。

「彼はへとへとになって、大きな石の上にたおれた。両手で髪をつかみ、顔を膝のあいだにうずめて、彼は叫んだ。『俺はろくでなしだ!』

 そのうち胸が張り裂けそうになって泣き出した。19年このかた、彼が泣いたのはこれがはじめてだった。」(同上)

 彼はありのままの自分の姿に気づく。じっと自分を見つめる。憎むべき徒刑囚ジャン・ヴァルジャンの奥に一種の光が見えてくる。注意してその光を見つめているうちに、その光が人間の形をしていることに気づく。その光はミリエル司教だった。そのすがたがだんだん大きく見えてきて光り輝き、ジャン・ヴァルジャンの魂を荘厳な光で満たす。彼は自分の生涯を見つめる。

「それはぞっとするようなものに見えた。自分の魂を見つめた。それはふた目と見られぬものに見えた。だが、この生涯とこの魂の上には、やわらかな光がさしていた。天国の光で魔王を見ているような気がした。」(同上)

 そして泣き明かした後彼は司教の館に向かう。

「その夜、当時グルノーブルがよいをしていた馬車屋が朝の3時ごろディーニュに着いて、司教館の通りを横切った時にビヤンヴニュ閣下(ミリエル司教)の戸口の前の暗がりで、敷石にひざまずき、お祈りのかっこうをしているひとりの男を見たということである。」(同上)

 (深夜3時ごろ司教館のまえで祈りを捧げるジャン・ヴァルジャン)

(「プチ・ジェルヴェ事件」)

(「プチ・ジェルヴェ事件」)TV 「レ・ミゼラブル」 (1982年)

 

(徒刑場での過酷な重労働) 主に海軍工廠の危険な作業に従事

(ヴィクトル・ユゴー)

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