「フランス革命の光と闇」⑩「ヴァレンヌ逃亡事件」

 バスチーユ陥落に始まるフランス革命も、当初は、後に起こる国王の処刑や恐怖政治期の大量粛清など、そのような陰惨な展開を見せることになるとは誰も思っていなかった。国民はフランスを国王と同一視しており、国王と国民の間には親密な一体感があった。それを失わせ、和気藹々とした楽観的な革命ムードを終わらせ、国民を引き裂くような革命的動乱へと移行させることになる事件が、1791年6月20日に起きる。国王一家の「ヴァレンヌ逃亡事件」である。

 宮廷関係者たちは革命当初から国王のパリ脱出を考えていた。王妃のマリー・アントワネットは大乗り気だったが、ルイ16世は拒み続けてきた。彼にとって、国民を打ち捨てて逃げるなど、とんでもないことだった。しかし、革命の進展の中で、自分に加えられた政治的屈辱に耐えきれぬ思いは、少しずつルイの中で強まっていく。徳川慶喜は自ら大政奉還を行ったが、ルイの頭に退位という道はなかったのだろうか?ルイは、教会によって聖別されて戴冠し、家系を絶やさぬことを最大の義務と考えていた。したがって、退位はあり得ぬ選択だった。では、どうするか?国外脱出。実行に移された脱出計画の概要はこうだ。ベルギー国境に近いモンメディの要塞に行き、ブイエ将軍指揮下の王党派部隊に合流する。王妃の実家オーストリアの軍の援助も得る。そして軍隊とともにパリに戻り、国会を武力で解散し、国王としての主導権を取り戻す。このような計画は革命の裏切りそのものだが、ルイにそのような認識はなかったと思われる。国民は過激な連中に影響されて一時的に気の迷いを起こしているだけだから、これを正道に戻すのは国王としての義務だ、と考えていたことだろう。

 しかし、この計画は失敗に終わる。変装して密かにパリを抜け出し210キロの行程をたどり、モンメディまであと40キロというヴァレンヌ村で正体を見破られて身柄を拘束された。 国王とともに新しい国づくりにあたろうとしていたフランスの人々にとって、これは青天の霹靂だった。国王は外国と謀ってフランスに攻め入ろうとしているという、以前からささやかれていた噂が俄然、信憑性を増した。ルイ16世は一挙に国民の信用を失い、「王政を廃止せよ!」という声がフランス全土から怒涛のように沸き起こる。モナ・オズーフはフランス革命の展開において決定的に重要なこの一日について次のように説明している。

「(この日)はすべてのものにとって、国王と国民との分離を意味した。国王は何の変哲もない亡命者と同様にこっそりと国境を越えようとした。国民はフランスを国王と同一視することは愚かだと考え、こうした伝統と決別した。その後も何度か王政が復古するが、国王と国民の絆が回復することは決してない。したがって、フランスは国王を殺すより前に王政を葬ったのだ」

(「豚小屋に連れ戻される国王一家」 )国外脱出に失敗してパリに連れ戻される国王一家の風刺画

(国王一家の逃走ルート)

(フェルセン)逃走計画の中心人物

(宮殿から脱出する国王一家)

(ヴァレンヌでの国王一家の逮捕)

(パリに連れ戻される国王一家)

(アレクサンドル・クシャルスキ「マリー・アントワネット 1791年」ヴェルサイユ宮殿)

 未完成の肖像画


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