「フランス革命の光と闇」⑧「ヴェルサイユ行進」2

 フランス革命が始まった1789年の二大事件といえば「バスチーユ陥落」と「ヴェルサイユ行進」。19世紀のフランスの歴史家ジュール・ミシュレはこう言っている。

        「男たちがバスチーユを奪取し、女たちが王を奪った」

 パリの女たちは何を行ったのか?1789年10月5日、8000人のパリの女性たちが18キロ離れたヴェルサイユに向かって雨の中、行進を開始した。国王と議会にパンを要求するためだ。彼女たちは、槍・剣・棍棒を手にし、三台の大砲まで引いていた。6時間かけて夕方5時ごろヴェルサイユに到着。そして大挙して国会の議場になだれ込む。女性たちの代表5人が宮殿内で国王と会見することになる。会談は和やかな雰囲気のうちに終始し、国王はパンと小麦をパリに届けることを彼女たちに約束した。また国王は、それまで留保していた封建的特権の廃止と人権宣言に関する法令にも署名した。

 夜の10時過ぎ、状況をコントロールするため女性たちの後を追ってパリを発った2万人の国民衛兵隊が、司令官ラファイエットに率いられて到着。かれらの後ろには武器を持った1万人以上の男たちも続いていた。ヴェルサイユ宮殿前の広場は、野宿する者たちであふれている。彼らは歌い、ふざけ、酒に酔っていたが、この夜は別段の混乱もなく過ぎた。

 しかし、翌日の早朝、理由らしい理由もなしに最悪の事態が起きる。デモ隊の何人かと近衛兵が喧嘩を始め、流血の暴力沙汰となった。群集の一部が鉈鎌(なたかま)や斧を持って宮殿内に侵入し、殺戮を始めた。兵士や近衛兵は追い詰められ、一人また一人と首を切り落とされた。彼らの最大の狙いはマリー・アントワネット。ある者は叫んだ。

   「おれたちはあの女の首を切ってやる、心臓と肝臓をクリームで煮込んでやる!」  

 秘密の通路のおかげで、国王、王妃をはじめとする王家の人々は全員が1か所に集まり、やがて大臣たちも加わった。聞こえてくる群集の叫び声。

         「国王をパリに!」  「オーストリア女を殺せ!」

 ルイ16世は長い時間ラファイエットと話し合い、群衆の要求に応じてパリに行くことを決意。ルイはバルコニーに出て、群衆に姿を見せる。「国王万歳!」「パリへ!」の喚声。群集は王妃が姿を見せることも要求。群集をなだめるために必要、とラファイエットに懇願され、青ざめながらも尊厳を保ちつつバルコニーに登場するマリー・アントワネット。「王妃万歳!」の声がパラパラとあがる。国王が、子どもと大臣とともに再登場し最後の言葉としてこう締めくくった。

「友たちよ、余は妻や子供たちとともにパリに行く。余にとって最も大切なものを善良かつ忠実な臣民の手に委ねるのだ」

 午後の早い時間に始まったパリへの行進は7時間もかかった。王宮の倉庫から出された小麦粉を積んだ車、それを引っ張る女性たち。国民軍。群集に取り囲まれた国王・王妃らの馬車。それだけではない。朝の虐殺の被害者たちの首も槍の先に刺されて進んだ。夜10時、パリに到着し、国王はテュイルリー宮殿に入る。こうして、ヴェルサイユからパリへの遷都が女たちによって実現した。

 (映画 「Un peuple et son roi」)1789年10月5日 ヴェルサイユへ向かう女たち

(10月5日 国民議会の議場に乗り込んだ女性たち)

(10月6日早朝 王妃の居室まで迫った群衆)

(10月6日早朝 恐怖のおびえる国王一家)

(10月6日 バルコニーに現れたマリー・アントワネット)ラファイエットが手にキス

(10月6日 ヴェルサイユからパリに向かう民衆)槍に突き刺さっているのは虐殺された近衛兵の頭


(10月6日 民衆によってパリに連行される国王一家)

(10月6日夕方 パリに着いた国王一家)

(ジョゼフ・デジレ・クール「ラ・ファイエット」ヴェルサイユ宮殿)

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