「西郷どん」⑦彰義隊と上野戦争3
勝は、彰義隊もあくまで説得によって解散させようとし、またできると思っていた。大村益次郎のような手荒な、武断的なやり方でなく、もっと平和的に、話し合いで解決しなければならないと考えていた。西郷たち大総督府の中心メンバー(海江田武次、木梨精一郎)も、勝の話し合い路線に理解と共感を持っていたから、多少時間をかけても武断的・破壊的・攻撃的処置は手控えていた。しかし大村益次郎や三条実美、江藤新平ら新政府の強硬派は違っていた。彰義隊を解散させられないのは、西郷たちが勝の狡猾な手口に丸め込まれた結果だとしか見ない。確かに、世間ではこんな噂が高かった。品川沖に碇泊し、脱走した幕兵に武器食糧を補給し、傷病者の治療を行い、叛乱部隊が逃げて来ると匿うなど、政府を無視した振る舞いを続けている幕府海軍は、勝の指示を受けている、と。また彰義隊を操っているのも勝だと言われていた。
慶応4年(1868)5月15日、新政府軍は約2000人を動員して彰義隊の立てこもる上野山を包囲した。午前7時、新政府軍主力の薩摩隊が黒門に攻撃を開始したことによって戦闘の火ぶたが切られた。銃撃戦とともにすさまじい白兵戦が展開された。
「屍は碁石を散らししが如く、うごめき叫ぶ惨状は修羅の巷にさも似たり。或いは散弾に打ちちぎられし、誰が肉塊にか、飛んで樹幹に貼付し、血痕淋漓たる、その苦戦知るべきなり」(彰義隊本営詰組頭・丸毛靭負『彰義隊戦争実歴抄』)
一進一退の激戦は正午ごろまで続いたが、勝敗は決しない。戦況をかえたのは、本郷台に設置された佐賀藩のアームストロング砲。その1弾が吉祥閣(文殊楼)に命中し炎上したのだ。燃えさかる炎に、彰義隊はたちまち浮き足立ち、戦意喪失のきっかけとなる。このアームストロング砲、当初佐賀藩は大村からの借用の申し出に対して難色を示した。本来は海上での戦いに用いるべきものであり、陸上で使用するには殺傷力が大きすぎる、それで同胞を打つのは忍びない、と言う理由で。それほどの破壊力のアームストロング砲の砲弾が、次々と寛永寺の堂舎に命中しはじめる。勢いづいた新政府軍は小舟に乗って不忍池を渡り、弁天島から砲撃し始めたため、至近弾を浴びて彰義隊はさらに劣勢に陥る。午後5時ごろ、ついに彰義隊は壊滅した。
新政府が彰義隊を1日で壊滅させたことは、確かに徳川家の牙を抜いた。この戦いの9日後の5月24日に徳川家の駿河移封が公表されたことからもわかる。しかし、これでことは終わらない。戦いを望まなかった会津藩、長岡藩が起ち、東北、北海道にまで戦禍を及ぼす戊辰戦争が始まってしまうのだ。
(「靖国神社大村大輔之肖像」)靖国神社に大村益次郎の銅像が建てられたのは明治26年(1893年)
(英泉「江戸八景 上野の晩鐘 」)中央が吉祥閣、右が清水観音堂
(「彰義隊奮戦之図」円通寺蔵)黒門口での戦闘は、雨中の白兵戦となった
(歌川 芳盛「本能寺合戦之図」)
タイトルはなぜか本能寺合戦之図となっているが実際は上野戦争を描いている
(上野戦争「清水堂付近での戦い」)
(広重「東都名所 上野清水堂」)左端が吉祥閣
(上野戦争で使用されたとされる佐賀藩のアームストロング砲)
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