「西郷どん」⑥彰義隊と上野戦争2

 慶応4年(1868年)4月11日、江戸城明け渡し。これに勝は出席していない。武力衝突やこぜり合いの発生を恐れて、浜の海軍局の屋上に登って江戸市中を監視していたのだ。確かに、煙も立たず火も見えなかった。しかし、江戸市中の治安は悪化の一途だった。旧幕臣らの憤激、やり場のない不平不満は頂点に達している。それは官軍側も同様。江戸城攻撃の戦意に燃えていた彼らは、攻撃中止の命が下って以降、やはりやり場のないエネルギーの処置に苦しみ、酒と女と暴力にはけ口を見出していた。市中治安にあたるはずの官軍諸隊は、江戸市民が見かねるような乱暴狼藉をしてはばからず、治安にあたるものとしての信望を得るどころか、憎悪を集めているのが実情だった。

 西郷は、このような現状を非常に憂える。彼の考えでは、そのように人心が動揺するのは徳川氏処分の方針が定まらないため。したがって、すみやかに慶喜の相続人を定め、その領地、封禄を賜る必要がある。西郷は、再び京に向かう(4月29日)。しかし、西郷が江戸を留守にすれば、江戸の治安がさらに悪化するのは必定。この頃、脱走した幕臣たちとの武力衝突も関東各地で始まっている。4月20日には大鳥圭介率いる脱走部隊が、宇都宮城を争奪。官軍はそれらの対応で江戸市中の警備の余裕はない。閏4月2日、大総督府は勝らに対し「江戸鎮撫方万端取締」を委任するに至る。

 勝は徳川処分を有利に展開させるために、このような状況も利用する。江戸警備の委任に際して、従来の労苦を謝し、意見を忌憚なく述べるように言い渡された勝は、すぐに大総督に嘆願書を書く。 「昨今、官軍が東下されて、江戸城献納の日に至るまで、何事もなく鎮静していたのは、臣義邦(勝海舟)の苦慮尽力により、なしえたものではありません。ひとえに、皇威赫々(かくかく)として、寡君慶喜が至恭至順の誠心の結果と存じます」

 勝は、主君慶喜の存在なくして、江戸鎮撫はできない、慶喜を江戸に呼び戻して欲しい、と言う。もともと備前岡山藩へ流謫されることになっていた慶喜を水戸蟄居としたのは、旧幕臣の動揺を抑えるためだったが、なおそのうえ江戸に呼び戻すなどと言う寛典を命じることは、官軍の威信にかかわる。しかし、江戸の治安悪化を考えると勝の意見を一蹴するわけにもいかない。西郷の留守を預かる大総督府海江田参謀は、京都朝廷にお伺いを立てる旨答える。西郷を始め大総督府は、このように江戸での武力衝突を避けながら、治安の回復を必死に模索していた。しかし、そのような対応は今日の新政府首脳らには生ぬるく感じられた。

 閏4月4日、それまでの大総督府の対応を大転換させることになる人物が江戸に到着する。大村益次郎。閏4月5日に京に到着した西郷と入れ替わるような形だ。かれは、江戸、関東を武力ですみやかに完全制圧する方針を固めた京都の新政府によって派遣された長州の兵学者。江戸に到着してしばらくは、現地の実状を知らない新参者として、大総督府内で孤立。しかし、京都から政府副総裁三条実美が関東監察使として江戸に来る(閏4月24日)と、大村は徳川家の実力を急速に奪う方針を取り始める。上野戦争に向かって事態は急展開していく。

 (広重「東都上野花見之図 清水堂」)上野戦争以前の、平和で穏やかな上野

(勝海舟  内田九一撮影)

(月岡芳年「近世人物誌 やまと新聞附録 第十七 西郷隆盛」)見慣れたイメージと異なる西郷

(キヨッソーネ「大村益次郎」)西郷とは異質な、徹底した合理主義者

(三条実美)

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