「西郷どん」⑧彰義隊と上野戦争4
上野戦争は大村の周到な作戦により5月15日一日で決着がついた。彰義隊の壊滅、その後の徳川家の駿河移封により、新政府は東北や越後に兵力を増派できるようになったため、東北侵攻を本格化させていく。9月22日会津降伏、同27日庄内藩降伏。これによって東北の戊辰戦争も終わる。鳥羽・伏見の戦以来局外中立を宣していた諸外国も中立を解除して形勢はほぼ落着。箱館で最後まで抵抗を続けていた榎本武揚軍も、1869年5月18日に降伏し戊辰戦争は終結。この内戦の結果,旧幕府体制は根底から崩壊し,明治絶対主義国家確立の道が開かれた。
こう見てくると、上野戦争が戊辰戦争の分岐点だったことが分かる。江戸を軍事的に制圧し、首都決戦に勝利したことは実に大きな意義があった。しかし、それでも大村的な武断的・破壊的・攻撃的処置には共感できないものを感じてしまう。勝や西郷の話し合い路線ではいつまでたっても問題は解決せず、結果的に被害を大きくさせた、被害を最小限にして江戸を制圧できたのだから大村のやり方は適切だった、そんな声が聞こえる。大村は、寛永寺の東側に兵を配置せず、逃げ道をつくった。梅雨の時期を決戦の日に選んだのも、火災の広がりを抑えるためだった。アームストロング砲も必要最小限しか使用しないように指示した。ちゃんと、細かな配慮もしている。確かに戦場は限定的なものだった。それでも、江戸城の東北に位置する下谷、谷中、湯島では約千戸が焼失。何より、彰義隊を追って堂塔伽藍の数々に火を放った新政府軍によって、徳川家の菩提寺として栄耀栄華を極めた寛永寺は焼け落ち、その威容は見る影もなくなってしまった。そこは、江戸っ子たちが春の花見、夏の蓮見(不忍池)、秋の紅葉狩り、冬の雪見を楽しんだ空間でもあった。境内やその周辺には、彰義隊士の遺体が放置された。新政府の命で収容が許されなかったためだ。こんな目撃証言が残っている。
「戦争翌日広小路まで用事あり参りしところ、死体切りきざみ、また胴手足所々にこれあり、血は流れあり、実に見苦しき有様なり」(山本政恒『幕末下級武士の記録』)
自分には、上野戦争のこのような決着のつけ方が、日清・日露戦争、日中戦争、太平洋戦争というその後の日本の進路につながっていくように思えてならない。かなり挑発的な表現ではあるが勝部真長が『勝海舟』の中でこんなふうに書いている。
「ヒトラーが「パリは燃えているか」と催促したというが、上野の文化財を砲撃できるのは、やはり長州の田舎の百姓医者あがりの大村益次郎でなければできない相談であった。大村は武士ではなく、武士の情けなど知らない男である。その破壊本能まる出しの容赦ない攻撃は、江戸的なもの、徳川文化の否定である。上野戦争は、ある意味で文化戦争である。長州の野蛮なミリタリズム(これは大正・昭和の時代まで軍部に伝わって害毒を流した)による江戸文化の抹殺である。今でいえば、国立博物館、表慶館、西洋美術館、と美術館のある上野の丘を砲撃できるか、という問題である。広島・長崎に原爆を落としたアメリカでさえ、京都・奈良への空襲は避けたではないか。」
革命や社会変革の在り方を考えるうえで、上野戦争は重く心にのしかかっている。
( 降伏式に臨む会津藩主松平容保)
(上野戦争跡)
(一景「東都名所四十八景 上野黒門前花見連」)
黒門が上野戦争最大の激戦地。西郷率いる薩摩軍と彰義隊がここで戦った。
(国直「新版浮絵 不忍弁天之図」)
(五稜郭跡 函館市)明治2年(1869)5月18日 国立博物館こで榎本らが降伏し、戊辰戦争は終結
(榎本武揚)
(靖国神社 大村益次郎像)
(上野公園 西郷隆盛像)
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