「西郷どん」⑤彰義隊と上野戦争1
勝は江戸無血開城談判を有利に展開させるために、イギリスの圧力を利用した。しかし、実は西郷も利用している。どういうことか。西郷は、東征大総督(有栖川宮熾仁親王)参謀であって、勝との交渉において全権を委任されていたわけではない。西郷は大久保から慶喜の恭順を認めるのであれば、徳川家が所有する武器のすべてを差し出すという条件を認めさせるという指示を受けていた。しかし西郷は、兵器没収の案件については、懸案事項としたまま、江戸城総攻撃の中止を独断で決定してしまった。そのため、新政府首脳との協議のために、江戸と京都との間を二往復せざるを得なかった。新政府首脳の中には強硬論もあったが、西郷はイギリス公使パークスの圧力を利用しながら説得を続け、3月20日の朝廷会議で、徳川処分案の第一条、慶喜の死一等を許され実家の水戸で謹慎することが本決まりとさせたのである。そして、4月11日早朝慶喜は水戸に向けて出発、江戸城は新政府軍に引き渡された。
しかしこれで万々歳というわけにはいかない。兵器弾薬、軍艦の受け渡しの件である。江戸城が引き渡される前日の4月10日、歩兵奉行大鳥圭介はじめ多くの旧幕府将兵が大量の武器を持ちだし脱走している。海軍副総裁榎本武揚に率いられ品川沖に停泊していた旧幕府海軍も一時館山沖まで逃走(軍艦7隻、兵員2000人)。勝の説得で品川沖に戻ったものの、新政府軍に引き渡されたのは旧式艦のみ。要するに、新政府側と取り決めた徳川家の武装解除はほとんど実現せず戦力は温存されてしまったのである。
中でも最も新政府軍が頭を痛めたのは、上野に立てこもる彰義隊の存在だった。話は慶喜が寛永寺で謹慎生活に入った2月12日にさかのぼる。一橋家の家臣・渋沢成一郎(渋沢栄一の従兄)ら17人が雑司が谷の茗荷屋で会して、慶喜の冤罪をすすごうと相談した。徳川家の断絶を傍観するに忍びないという幕臣たちを中心に、会合を重ねるたびに参加者が増えていった。そこで隊名を「尊王恭順有志会」と名付けたが、後に「彰義隊」と改め、頭取に渋沢、副頭取に天野八郎を選び、浅草本願寺を屯所とした(2月23日)。やがて諸藩の脱藩浪士や不満分子を吸収して急速に人数が膨れ上がり、隊士2000人になった。そして開城後の江戸城を管理していた前津山藩主・松平斉民(なりたみ)が江戸市中の警備を委任するため彰義隊を公認すると、慶喜の護衛を名目として上野に屯所を移して気勢を上げた。この存在は、西郷たち新政府軍にとってだけでなく、徳川家の領地問題(禄高を何万石にするのか、城地を江戸からどこに移すか)を有利に解決しようと奔走していた勝にとっても悩ましいものだった。
( 広重「東都名所 上野東叡山全図」)上野戦争で焼失する前の上野寛永寺
(北斎「浮絵 東叡山中堂之図」)
(川村清雄「勝海舟江戸開城図」江戸東京博物館)
(佐藤均「西郷隆盛」致道博物館 山形県鶴岡市)
(旧幕府軍の旗標である日の丸が描かれた彰義隊の旗)
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