「西郷どん」④ドラマ「江戸無血開城」3

 勝は江戸を火の海にさせたくなかった。しかし、西郷との談判が不調に終わり、江戸総攻撃を止められなかった場合には自ら火を放って江戸を焼き払おうとした。ナポレオン遠征軍に対してアレクサンドル2世が行った焦土作戦(モスクワ)である。勝は細かく指示を出した。火消しの頭、博徒の長、運送の長、非人頭に「焼討手当」として250両を与え、「合図次第放火せよ!」と命じた。逃げ遅れた避難民対策までとっている。江戸湾に集めておいた雇い船でできるだけ救出するように、房総の漁船を借り上げる支度金を100両用意している。

 その手段を実行に移すのは、東征軍側が徳川家の歎願を聞き入れずに攻撃に移った場合、徳川家臣の我慢の限度を越えた屈辱的な内容の条件しか受け入れない場合といった、限定的な条件のもとにしろ、勝は本気で焦土作戦を考えていたのだろうか?違うと思う。彼の目的は、焦土になる危険性を諸外国、とくにイギリスに知らせることにあったのだ。それをイギリスが知れば、イギリスが新政府、官軍に江戸攻撃を中止するように圧力をかけるだろうと計算していたのだと思う。日本との継続的な交易を望むイギリスは、ロンドンをもしのぐ100万都市江戸が焼失することを当然回避したかった。そして、官軍にとってそれまで幕府を支持するフランスに対して、薩長を支持してきたイギリスの圧力は何より恐ろしかった。そのことを勝は利用した。勝と西郷の会談前には、イギリス公使パークスから江戸総攻撃をやめるよう官軍に要請があり、西郷の耳にも入っていたようだ(異説あり)。官軍側(東征軍先鋒参謀木梨精一郎、大村藩渡辺清隊長)が江戸城攻撃の際の負傷者の治療をイギリスの病院で行ってほしいとパークスに依頼に言った時のこと。パークスがこう言ったとされる。

「 徳川慶喜は恭順しているというではないか。恭順しているものに戦争をしかけるとは、どういうわけであるか」

「 政府というものは、もしその国内で戦争を開くときには、居留地の居留民を統括しているところの領事に通告を出さなければならないものである。しかるに、今日の場合、今まで何の通告も来ていない。」

 さらに勝の凄いところは、そこまで戦争回避の手段を取りながら、最悪の事態も想定して手を打っていたところ。パークスに会いに行ったときのこと。イギリス軍艦アイロンジック艦長ケッペルと密談している。そして、慶喜の切腹が決められた場合には、慶喜をイギリスに亡命させる密約を交わしているのだ。最悪の事態を想定しつつ、あらゆる可能性を探り手を打つ、というのがすぐれた指導者。勝は、世界史的に見てもトップレベルの資質を備えた政治家、外交家だった。

 (勝・西郷会談)

(キヨッソーネ「西郷隆盛」)

(「勝海舟の銅像」墨田区役所うるおい広場)

(ハリー・パークス)

英国の外交官で、幕末から明治初期にかけ18年間(1865年~1883年)駐日英国公使を務めた。

(ナポレオンモスクワ遠征 炎上するモスクワ)

0コメント

  • 1000 / 1000