「西郷どん」③ドラマ「江戸無血開城」2
山岡は、勝から預かった手紙を西郷に渡す。そこには、徳川家の助命など一言も書かれていない。 「徳川の臣は一致して恭順しているが状況は険悪で、いつ不測の事態となり静寛院宮に危険が及ぶかもしれない。官軍は条理をただして、処理を誤らないで欲しい」
静寛院宮(せいかんのみや)=和宮(かずのみや)は14代将軍徳川家茂の正室であり、孝明天皇の妹、明治天皇の叔母にあたる。勝のこの手紙の内容は、勤王家西郷の気持ちを動かすための勝の作戦だと思う。静寛院宮は天璋院(てんしょういん)=篤姫(あつひめ)とともに、江戸城総攻撃中止の嘆願書を西郷に送っている。この点も、大河ドラマでは西郷となじみのある天璋院による嘆願の場面しか出していない。勝のしたたかで粘り強い政治性、安易に力に頼らない、深い人間洞察・状況把握に基づく交渉力(今の日本の政治家に切実に求められている資質)がまるで浮き彫りにされなかった。勝の凄さが描かれなければ、西郷の凄さも浮き彫りにはできない。かつて坂本龍馬が言ったように、西郷と言う人物は、坂本龍馬が言ったように「釣り鐘に例えると、小さく叩けば小さく響き、大きく叩けば大きく響く。」のだから。
山岡の西郷説得の手法も、描き方が安易すぎる。西郷の翻意を促すため、山岡に腹を切ろうとさせていたが、「なんじゃ、それ」と目が点になった。西郷が山岡に惚れ込み、明治になって明治天皇の教育係に山岡を指名するほどの深い信頼を抱くようになることがあれでは伝わらない。西郷は山岡に、恭順降伏の条件を箇条書きにした書付を渡す。七カ条の条件に目を通した山岡はこう西郷に言う。この場面は、海音寺潮五郎『江戸開城』に語ってもらう。
「一カ条だけ、すなわち、主人慶喜を備前藩へあずけることだけは、拙者の身分としてはお請け出来ません。なぜなら、これは徳川家恩顧の家来共が決して承服しないことでございますから。詮ずるところ、この個条は飽くまで戦争を強行し、数万の者を殺そうとなさることであります。王師のなさることとは思われません。これでは、先生はただの人殺しとなりましょう。この条項だけは決してお請け出来ません」
西郷にしてみれば、山岡は知るまいが、「軍門に降伏」という条目を削ってやったのである。名誉を守ってやって、よいことをしたと自足しているところに、こう言われたので、虚をつかれた気持ちで、狼狽に似た思いであった。覚えず、
「朝命ですぞ」
と言った。
「たとえ朝命でも、拙者は承服出来ません」
「朝命ですぞ」
と、また言った。この時には立ち直っていたが、相手をためすためであった。
「それでは、お考え下さい。仮に立場をかえて、島津候が今日の慶喜の立場になられたとして、先生はこのような命令を甘受なさいますでしょうか。君臣の義とは、一体なんでありましょうか。お考え下さい。切にお考え下さい。拙者には承服できないのです」
西郷は心を打たれて、しばらく黙っていた後、
「先生の言われる通りでごわす。わかりました。慶喜殿のことは、吉之助がきっと引受けて、はからいます。安心してください。かたく約束します」
と、言った。
山岡は泣いて感謝した。 (以上引用)
もちろん、山岡が「島津候」と言った時、西郷の頭に浮かんだのは久光公ではなく亡き斉彬公だったろうが。斉彬公が亡くなった時、西郷は殉死までしようとした。それほど心酔していた斉彬と慶喜の立場を入れ替えて考えさせようとしたのだろう、山岡は(これも勝の作戦だったように思えるのだが)。いずれにせよ、ある意味勝、西郷会談以上に山岡、西郷会談は「江戸無血開城」のハイライト。大河ドラマなら、ドラマらしくもっとドラマチックに描いてほしかった、安っぽいハラキリ嘆願などではなく。
(「西郷涅槃像」)部分
西郷が亡くなった後、釈迦の死(涅槃)になぞらえたこんな絵も描かれた。
(「西郷涅槃像」)全体
(キヨッソーネ「西郷隆盛肖像」 鹿児島市立美術館)
キヨッソーネは明治時代に来日しお雇い外国人(イタリア人の版画家・画家)
西郷をこんな風に描いた絵もある
(『靜寛院宮』西条八十著、昭和10年)
(天璋院 篤姫)
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