「西郷どん」②ドラマ「江戸無血開城」1

 HHK大河ドラマ『西郷どん』で、「江戸無血開城」がどう描かれるか興味津々だったが、がっかり、いや愕然とした。あれでは、西郷、勝、山岡鉄舟(鉄太郎)の凄さがまるで伝わらない。西郷が土壇場で江戸総攻撃を中止したのが、勝によって自分の根底にある民を思う気持ちを呼び起こされたため、としか描かれていない。単純すぎる。

 勝は西郷を翻意させるために実に綿密に策を練った。まず勝の使者として山岡を派遣したこと。山岡は、官軍が警備する街道を西郷がいる駿府までを「朝敵徳川慶喜家来、山岡鉄太郎まかり通る」と大音声で堂々と歩行していったといわれる肝っ玉の据わった男。西郷は「 命もいらず、名もいらず、官位も金もいらぬ人は始末に困るものなり。この始末に困る人ならでは、艱難を共にして国家の大業は成し得られぬなり。」という言葉を残した(『南洲翁遺訓』)が、これは山岡について言った言葉。しかし、山岡の役目は、勝の手紙を渡し、勝との会談を実現させ、西郷の気持ちを軟化させること。死んでしまっては意味がない。だから、勝は山岡を一人で駿府まで行かせたわけではない。薩摩藩士が同行している。その名は益満休之助。

 話は大政奉還時までさかのぼる。西郷は倒幕のための工作、幕府軍の方から戦端を開かせる(そうすれば「朝敵」として討伐する大義名分ができる)ための工作を江戸で行っていた。西郷から密命を帯びてその任に当たったのが益満休之助。三田の薩摩藩邸を根拠地として志を同じくする倒幕、尊皇攘夷論者の浪士を全国から多数招き入れ、放火や、掠奪・暴行などを繰り返し、幕府(正確には旧幕府)を挑発した。幕臣達は「続出する騒乱の黒幕は薩摩藩」との疑いを強くし、ついに薩摩藩邸を焼き討ちする。その報が大阪城に伝わると、「薩摩討つべし」の声が沸きあがる。慶喜はその声を抑えることができず、鳥羽・伏見の戦いが勃発。西郷の目論見通りになったのだ。

 ところで益満は「江戸薩摩藩邸焼討事件」のあと、幕府方により逮捕され処刑されることになっていた。それを処刑直前に勝海舟によって身請けされ、勝邸に幽閉されたのだ。そして勝は、西郷と山岡の駿府での会談に同行させたというわけだ。この時の益満と西郷の対面を子母沢寛は『勝海舟』の中で次のように描写している。

「先生」

 益満は、前倒(のめ)るように、そこへ座ると、やっとそれだけいった。涙がぼろぼろ出て来るのである。

「休、生きていたか」

「はい。危ないところを勝先生に助けられ・・・勝家に養われておりました」

「何?勝先生とこに」

「はい。わたしの入牢中、家内も勝先生のところのお世話になっておりました」

「うーむ」

 西郷は少し唸るような声を出して、うつ向き加減に、

「よかった、よかった」

と、呟いた。大きな眼が、一ぱいにうるんでいる。

「有難いことだった。勝先生とこ、勝先生とこ、なあ」

「はい」

 西郷の頬をつたって、涙がぽたりとあの盛り上がるような膝へ落ちた。 

「勝先生とこ、なあ」

 一部の史家は、この時の西郷の涙をもって、江戸はすでに救われたと論ずる。或いはそうかも知れない。                                    (以上引用)

 『西郷どん』では、益満が山岡に同行したことすら触れられていない。あれでは幕末維新史のひとつのハイライト「江戸無血開城」に際して展開された人間ドラマはまるで伝わらない。こんなつまらない描き方では視聴率が低迷するのも当然だ。

(「薩摩藩邸焼討事件」)

(江戸高輪の薩摩藩邸)

(高取稚成「大総督 有栖川宮熾仁 親王京都進発」聖徳記念絵画館)東征大総督が京都を進発

(勝海舟)

(山岡鉄舟)

(小説「益満休之助」直木三十五)  あの「直木賞」の正式名は「直木三十五賞」

(西郷隆盛・山岡鉄舟会見の碑)  静岡県静岡市葵区御幸町3-21

 

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