「モーツァルトとヨーゼフ2世」②「世界で最良の場所」ウィーン
モーツァルトにとってウィーンは、もうそこにしか自分の活動場所はない、と思わせてくれる場所だった。
「親愛なるパパ・・・誓って申し上げますが、ここは素晴らしい場所です。僕の仕事にとって、世界で最良の場所です。・・・僕もここが好きだし、もちろんそれを力の限り利用してみます。」(1781年4月4日付父レオポルト宛手紙)
しかし、コロレド大司教にとってモーツアルトは自分の宮廷音楽家の一人にすぎない。ただの楽師、使用人。どんなにウィーンの貴族の前で素晴らしい演奏を披露しても、あくまで宮廷音楽家の給与の中の仕事。それを離れてフリーに活動し、収入を得ることなど許さない。モーツアルトの不満はつのる。
「ぼくにとっては、大司教は、当地では大変な邪魔者なのです。というのは、彼は僕に少なくとも100ドゥカーテンは損をさせているからです。これは劇場で演奏会を一つやれば確実に手に入っただろうからです。・・・もう聴衆の人たちがぼくを知ったのですから、僕自身の演奏会をやったらどうお思いですか?なぜ僕にできないんでしょうか?ひとえにわれらが大無作法物が許してくれないためです。自分の使用人が儲けるのが嫌で、損をさせたいのです。でも僕の場合にはそんなことはやらせませんよ。当地でお弟子を二人もとれば、ザルツブルクよりはずっといいですからね。僕にはあの男の住居も食事もいりません。」 (1781年4月4日付父レオポルト宛手紙) *「1ドゥカーテン」=約2万円
コロレド大司教との主従関係が決裂するのは時間の問題。モーツァルトはウィーンでやっていける十分な自信があった。ピアノのレッスンだけで、とりあえず食うには困らない。貴族のサロンからの招きでの演奏会も期待できる。こんなことまで書いている。
「ところで僕の主な目論見は、すっきりしたやり方で、皇帝にお目通りすることです。なぜって、彼は僕を知る必要があるって、絶対に僕は信じているからです。僕は彼に楽しんで僕のオペラに眼を通してもらいたいし、それに素晴らしいフーガを弾いてみたいのです。」(1781年3月17日付父レオポルト宛手紙)
共同統治者マリア・テレジアは1780年11月29日に亡くなった。改革に燃える皇帝ヨーゼフ2世の単独統治は開始されたばかり。啓蒙専制君主ヨーゼフ2世のもとで、父親と雇われ生活の重圧から解放されフリーになったモーツァルトは、奔流のように次々に名曲を生み出してゆく。
(クローチェ「モーツァルト一家の肖像」1781年)
(「シェーンブルン宮殿」銅版画 カール・シュッツ 1783)
(「ミヒャエル広場とブルク劇場 」カール・シュッツ 1784
(「ベルヴェデーレ宮殿」カール・シュッツ 1785)
(「シュテファン寺院」銅版画 カール・シュッツ 1792)
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