「西郷どん」①「土中の死骨」
NHK大河ドラマ『西郷どん』は第37話で視聴率10%を切ってしまったが、評価は高くない。オンデマンドで36話まで見たが、西郷が沖永良部島からもどって本格的な政治活動を始めるのは27話から。そこまでやたらゆっくり物語が展開し、まさに激動の幕末史が始まる「八月十八日の政変」以降の流れが単なるエピソードの羅列でやたら進行が早い。あれでは幕末史の流れがまるで伝わらない。「池田屋事件」、「禁門の変」、「第一次長州征伐」、「薩長同盟」、「第二次長州征伐」、「倒幕の密勅」、「大政奉還」、「王政復古のクーデター」、「小御所会議」、「薩摩藩邸焼討事件」、「戊辰戦争」。それらがどう関連し、どのような対立する勢力のせめぎあいの中でそれらの出来事が起こり、その中で西郷はどのように行動し、歴史を展開させていったのかが伝わってこない。幕末史を彩る英傑たちの中で、倒幕の最大の功労者と言っていい西郷の「凄さ」が伝わってこない。
ところで、西郷は極端な写真嫌いで、西郷を写した写真は一枚も存在しない。何しろ、あの勤王家の西郷が、明治天皇から写真を提出するように言われた時も、うやむやにして写真を提出しなかったくらいなのだ。それは、安政の大獄で幕府に追われる勤皇僧の月照を匿うよう近衛家から依頼された西郷が守り切れずに一緒に入水自殺を図ったことに関係する。月照は死に、西郷だけが蘇生。以後、西郷は自らを「土中の死骨」(どちゅうのしこつ)と称した。だから、一度死んだ者(死骨)が写真を残すことは亡き月照上人に対して申し訳ない行為だとして拒絶したのだ。だから、西郷の風貌は肖像画と生前かかわりのあった人物の証言から推測するしかない。幕末期に活躍した英国の通訳官・外交官アーネスト・サトウはこう言っている。
「巨大な黒ダイヤモンドのように光った眼。口を開くと何とも言えぬ愛嬌がこぼれ、親しみがあった」
妻のいと子も同様に話している。
「肖像画を見ても、やたらに眼をつり上げて、こわく描いてあるけれども、ああいう感じの人ではない。目玉はたしかに非常に大きかったが、何となく慈愛のこもったまなざし」
西郷と言う人物の本質を表現していると思うのは次の二つの文章だ。まずは、西南戦争で最後とともに戦った旧中津藩の藩士増田栄太郎の言葉。西南戦争には、薩摩の士族だけでなく、九州各地の不平士族が参戦していた。そのなかに、中津藩の義勇隊を率いて参加した増田栄太郎という人物がいた。 西郷軍が追い詰められ、敗色濃厚となったときに増田は隊の解散して隊員を中津に帰すが、自身は帰ろうとしなかった。そのときに遺した言葉だ。
「一日西郷に接すれば、一日の愛生ず。三日接すれば、三日の愛生ず。親愛日に加わり、今は去るべくもあらず。ただ、死生をともにせんのみ」 もうひとつは、西郷が江戸無血開城にあたって勝海舟との会談の前に駿府で会った山岡鉄舟の人物評として西郷が語ったとされる言葉で、『南洲翁遺訓』に記されている。 「 命もいらず、名もいらず、官位も金もいらぬ人は始末に困るものなり。この始末に困る人ならでは、艱難を共にして国家の大業は成し得られぬなり。」
西郷の複雑で、魅力的な人物像に迫ってみたい。
(「西郷星」)
明治10年(1877年)、西郷隆盛は西南戦争に敗れ自刃。この年火星の大接近があったが、当時の庶民はこれが火星である事は知らず、「急に現われた異様に明るい星の赤い光の中に、陸軍大将の正装をした西郷隆盛の姿が見えた」という噂が流れ、西郷星と呼ばれて大騒ぎになった。西郷の人気のほどがうかがえる。
(梅堂国政「西南珍聞 俗称西郷星之図」) これも「西郷星」を描いている。
(肥後直熊「西郷隆盛」)この肖像画はかなり実像に近いように思う。
(入水自殺を図る西郷と月照)
(アーネスト・サトウ)
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