「モーツァルトとヨーゼフ2世」①「寛容の家」

 ウィーンのフライシュ・マルクト一八番地に″Toleranzhaus″(寛容の家)と呼ばれる7階建ての建物がある。建てたのはギリシャ商人ナトルプ。そして、彼は建物に肖像プレートとともに、文章を刻んだ。

      「この家は無常であるが、ヨーゼフの名声は永久に続く。

              彼は我々に寛容を授けられた。それは、妨げられない。」

 これは、ヨーゼフ2世が1781年に出した「宗教寛容令」に対する感謝の気持ちを表したものだ。この法令は、カトリック以外のキリスト教徒(ルター派、カルヴァン派、ギリシャ正教)やユダヤ教徒もカトリックと同等に扱うことを命じたもの。この法令のおかげで、ギリシア人(ギリシャ正教徒)のナトルプは商売が上向きになり、ささやかな商人から大商人へと転身することができた。

 これ以前は、カトリック以外のキリスト教徒たちは、裏通りに設けられた教会口を通り、神のもとに通った。それらの教会の入口が大通りに面することは禁じられており、カトリック教徒以外のものが大通りを通行することは許されなかった。だから、ヨーゼフ2世の「宗教寛容令」によって、ナトルプはウィーン社会に承認され、市民権を獲得できたのである。

 この年には、「農奴解放令」も出された。検閲も大幅に緩された。ヨーゼフ2世は、フランス革命が下から実現しようとした自由、平等を上から実現しようとした。そしてヨーゼフ統治下の解放感溢れるウィーンの街にモーツアルトが住み始めたのもこの1781年である。そしてヨーゼフから作曲の依頼を受ける。モーツァルトのオペラの中で最大の興行的成功をおさめたドイツ語オペラ『後宮からの逃走』。1781年7月30日に台本を受け取り作曲を開始。翌1782年5月19日に完成し7月16日、ウィーンのブルク劇場で初演された。一部に反対意見もあったが、興行的には大成功をおさめ、繰り返し上演された。この成功によりモーツァルトはウィーンでの名声を確立。このオペラは、ブルク劇場でドイツ語オペラを成功させるという、皇帝の長年の望みを果たすものでもあった。1776年、ヨーゼフはブルク劇場を宮廷国立劇場に改組し、「オペラはイタリア語」という世間常識に挑戦し、ドイツ文化の振興をはかろうとしていた。モーツァルトもようやく活躍の舞台を見出した。

(ドイツ語オペラ「後宮からの逃走」)

(「寛容の家」)7階建ての豪邸

(「寛容の家」)真ん中の階に、肖像のプレートの両側に文字が書かれている

(「寛容の家」)

(「スラヴィコヴィッチの畝」)自ら農耕をおこなうヨーゼフ2世 


(アントン・フォン・マロン「ヨーゼフ2世」ウィーン美術史美術館)

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