「日本橋 魚市場」⑥「紫鯉」

 芭蕉が日本橋で身を寄せていた幕府鯉納入御用問屋、杉山賢水宅。この賢水の長男が杉風(さんぷう)。芭蕉がまだ有名になる以前からの支持者であり、芭蕉十哲のひとりとして終生随身した。通称は鯉屋藤左衛門・市兵衛。篤実な人柄を芭蕉も愛し「去来は西三十三国、杉風は東三十三国の俳諧奉行」と言ったと伝えられる。杉風は師に対して経済的な援助を通じて、パトロン的役割も果たし、のちに芭蕉が蕉風俳諧を築いていく上での最大功労者といわれている。

 杉風の家業である鯉問屋「鯉屋」は、幕府に魚を納める「御納屋」(おなや)。魚河岸でも特別の存在で、たいへんに羽振りが良かったことが芭蕉への庇護を可能にした。「鯉屋」では鯉を囲っておくための生簀を深川に二ヶ所持っていたが、そこにあった番小屋を改造したのが「深川芭蕉庵」。芭蕉はその頃「桃青」と号し、芭蕉庵も最初は「泊船堂」と名付けられたが、天和元年(1681)春に門人の李下から芭蕉の株をもらい庭に植えたところ、夏秋には見事に葉が茂り近所の人々から「芭蕉の庵」と呼ばれるようになる。桃青もこれが気に入り「芭蕉」を第2の号として好んで用いるようになった。

 ところで、鯉は古来もっとも尊い魚とされてきた。『徒然草』にこうある。

       「鯉ばかりこそ、御前にても切らるるものなれば、やん事なき魚なり」

        (鯉だけは、天皇の御前でも調理されるので、貴い魚である)

 江戸時代には、魚類の第一位は鯛だったが、鯉は淡水魚の中では第一位でよく食べられ人気は高かった。帝も食する高貴な魚ということに加え、竜門の滝を登って竜になるという古代中国の伝説が広く知られて縁起の良い魚とされ、味も美味だったからだ。また、日本の河川湖沼どこにでもいてよくとれたので、一年中新鮮な状態でたべることができたことも人気の秘密だった。

 江戸では、浅草川(隅田川)の河口付近でとれた美味な鯉を「紫鯉」といい最上とした。『江戸名所図会』には浅草川についてこう記している。

「隅田川の下流にして旧名を宮戸川と号す。白魚・紫鯉の二品をこの河の名産とす。美味にしてこれを賞せり。」

 特に隅田川を隔てた浅草の対岸向島には、鯉料理を食べさせる料理茶屋が多くあった。隅田川土手すぐ下、三囲稲荷の角にあったのが「葛西太郎」と呼ばれた「平岩」、秋葉権現へ行く途中にあったのが「大七」と「武蔵屋」。「大七」」には浴場があり、貸し浴衣のサービスまで行って人気が高かった。「武蔵屋」は、当初は「平岩」に次ぐものだったが、次第に「平岩」を凌いで繁盛した。さらに、ここは江戸落語の中興の場となった。元禄時代にはひとつの話芸として確立した落語もその後衰えていた。それを、烏亭焉馬(うていえんば)が天明4年(1784)、武蔵屋において自作自演の「噺の会」を催し、好評を得た。そこから江戸落語が盛んになっていき、寛政末年頃には現在の落噺の形が完成し、明治に入って落語という呼び方が定着したのである。 

(広重「鯛・鰹・鯉」)

(広重「魚尽くし 鯉」)

(北斎「滝に鯉」)

(広重「江戸高名会亭尽 向島之図 平岩」)

(広重「江戸高名会亭尽 向島 大七」)そろいの浴衣は店のレンタル品

(向島 江戸切絵図 )料理屋「平岩」、「武蔵屋」、「大七」が描かれている。

(「松尾芭蕉像」芭蕉庵史跡展望庭園)

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