「日本橋 魚市場」⑤松尾芭蕉と魚河岸

 芭蕉は寛文12年(1672年)29歳の時、故郷伊賀上野から江戸に出た。そして延宝8年(1680年)37歳までの8年間、日本橋の小田原町(現室町1丁目)に住んだ。芭蕉が身を寄せたのは幕府鯉納入御用問屋を営む杉山賢水(北村季吟の同門下だった小沢仙風の俳号を持つ)宅(ただし、芭蕉門人で日本橋大舟町の名主小沢太郎兵衛の借家だという説も有力。そこも小田原町にあったが。)。小田原町と言えば、記録に残っている最初の日本橋魚市場。江戸に招かれた摂州佃村の名主・森孫右衛門の長男、森九右衛門が慶長年間に日本橋本小田原町に売り場を開設したとされている。

 芭蕉が江戸に来た当時、俳諧は松永貞徳を中心とする「貞門俳諧」が主流だった。この流派は、和歌、連歌で禁じられている漢語や俗語である「俳言」(はいごん)を使用して日常や感情を、ユーモアをもって表現する手法を特徴とした。しかし、そのなまぬるい俳風や堅苦しい作法に不満をもつ人びとが「談林俳諧」(盟主は西山宗因)を始め、若き芭蕉も傾倒する。しかし、滑稽の機知や華やかさを競う句ばかりが持てはやされる傾向に芭蕉は満足できない。芭蕉が目指したのは、そのような“笑い”や“楽しさ”を求める俳句ではなかった。静寂の中の自然の美や、李白・杜甫ら漢詩人の孤高、魂の救済などを詠み込んだ世界。自然や人生の探究が刻み込まれた俳句。ただし、独自の「蕉風俳諧」を確立し、いわゆる「わび」「さび」の域に到達するのは、まだまだこれよりずっと先のこと。それにしても、芭蕉が自らの境地を求めて試行錯誤の旅を始めた場所が、早朝から威勢のいい掛け声が飛び交う繁華で喧噪を極めた日本橋魚河岸だったというのは不思議な気がする(まだ芭蕉と言う謎の多い人物を自分なりに解釈できていないからだろうが)。

 ところで、あの谷崎潤一郎の弟谷崎精二【1890-1971】が『面影の街をもとめて』の中で、日本橋魚河岸の雰囲気を実に要領よく記している。

「元禄時代世間一般が奢侈に流れて酒席、祝宴の催しが頻繁に行われるようになり、魚介類の需要が激増して空前の盛況を呈するに至った。・・・魚河岸の商人は江戸っ子の代表として、最も威勢がよく、かつ喧嘩早いので評判だった。これは徳川家の御用商人として普通の商人と各式を異にし、隠然たる勢力を誇っていたためであろう。魚市場には将軍家の命に応じて魚を納める義務があった。その代わり幕府は損害補償の意味で助成金を下付したりした。魚河岸から大八車に魚介類を積み、御用の高札を立てて運搬する時は、百万石の大名の行列の前でも横切って進むことを許されたし、将軍家乗船に際しては日本橋川筋の碇泊船は厳重に取り締まられたが、魚を積んだ河岸の船だけは平常通り航行を許されたと云われる。」

 日本橋に住んでいた当時「桃青」と称していた芭蕉は延宝6年(1678年)には俳諧宗匠として独立。その翌年(延宝7年)の正月、宗匠としての心意気をこんな句で詠み上げている。

             「発句也 松尾桃青 宿の春」

(一年の初めは、俳句にたとえれば発句のようなもの、いま、わたしの宿にも春が来た。この正月は、私の俳諧人生の発句でもあるのだ。)

 青年芭蕉の密かな、しかし自信を込めた力強い人生旅立ちの宣言。この句碑が中央区日本橋室町一丁目、老舗の佃煮屋「日本橋 鮒佐」の店先に建っている。

 (礫川亭永理「浮絵 江戸 日本橋小田原町 肴市之図」)

 こんな賑やかな場所に芭蕉は8年間住んでいた

(杉山杉風「芭蕉像」)

(広重「東海道 一 五十三次 日本橋」)

(広重「東海道五十三次之内 日本橋 行列振出」)

(英泉「江戸八景 日本橋の晴嵐」)

(国貞「江戸名所百人美女 日本はし」)

魚河岸の魚問屋の女房が、蛸の足を塩につけてつまみながら昼間っから一杯やっている。

(「芭蕉句碑」日本橋「鮒佐」前)

 


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