「日本橋 魚市場」④「粋で鯔背な江戸っ子」

 日本橋魚河岸には、江戸湾で採れた魚だけでなく、房総沖やさらには東伊豆で獲れたものまで運ばれてきた。では、東伊豆で獲れた魚をどうやって江戸まで運んだか?江戸の初期は、相模湾を船で運んだ後、鎌倉近辺から馬の背に移して金沢八景まで陸送し、その後また船で江戸に向かった。しかし、これでは時間がかかりすぎる。相模湾から江戸の魚河岸に短時間で直行できる高速船が望まれていた。そうしてできたのが「押送船」(おしょくりぶね)。細長い船体、尖った船首、3本の着脱式の帆、7丁(8丁)の艪という帆走・漕走同時併用の小型高速船だ。普通の帆船であれば帆走中は艪で漕がないが、押送船では帆走中でも艪で漕ぐ。そして、江戸時代には江戸湾に入る船は幕府の浦賀番所に立ち寄ることが義務付けられていたが、押送船はそれも免除された。この結果、文化•文政期(1804-1830年)頃には東伊豆を夜に発った押送船は海上36里(約140km)を一夜で走破し、翌朝には江戸市中の魚河岸に届けられるようになった。ただし、欠点もあった。小型で航行リスクが高く(外洋を進むため)少量の鮮魚しか運べない。そこで、3艘ごとに船団を組んだようだ。有名な北斎「富嶽三十六景 神奈川沖浪裏」にも、大波に翻弄される三艘の「押送船」が描かれている。

 急いで運ばれた魚は急いで売らねば意味がない。だから鮮魚を商う魚河岸の男達はとにかく非常にせっかちで、喧嘩口論が絶えなかった。

 「いけすかねぇ野郎だ」    「いけしゃあしゃあとよくもそんな嘘をつけたもんだ」

 「どこの何様だか知らねぇが、ごたいそうな口利きやがって」

 「いつまでぐだぐだごたくを並べてんだ」 「まごまごすりゃァ日が暮れらぁ、このべらぼうめ」

 こんな威勢のいい、小気味いい言葉が飛び交っていたのだろう。

 「粋で鯔背(いなせ)な江戸っ子」と言うが、この「鯔背」も魚河岸の若者が結っていた「鯔背銀杏」という髪型に由来する(別説あり)。本来髷は頭頂の中心に前方に真っすぐに載せるが、それをちょっと片寄り曲がらせる。その曲がり加減が鯔の背びれに似ていると言うことでボラの幼魚の呼び名 「鯔(いな)」を取って「鯔背(いなせ)」。このことから小意気な風情の若者を「いなせな若い衆」と呼ぶことに発展したようだ。このように、日本橋魚河岸は、威勢がよくて、腕っ節も強い江戸っ子気質を生み出していった。それを、戯作者の山東京伝は、「江戸っ子の根性骨(ねおいぼね)、万事に渡る日本ばしの真中から......」(『通言総籬(つうげんそうまがき)』)と記している。

 (昇亭北壽「東都日本橋風景」)部分  押送船など多くの舟が行き交い、荷揚げしている様子が描かれている

(押送船 八丁櫓)こんなふうに漕いだようだ

(広重「名所江戸百景 日本橋 雪晴」) 押送船が3艘描かれている

(『江戸名所図会 日本橋 魚市』)部分 荷揚げの様子

(北斎「富嶽三十六景 神奈川沖浪裏」)  大波に翻弄される三艘の押送船

(国貞「東海道五十三次の内 日本橋 松魚売」)

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