「日本橋 魚市場」③「活鯛屋敷」

  「腐っても鯛」と言う。江戸後期の俳文集『鶉衣』(うずらごろも)にはこうある。 

           「人は武士、柱は檜(ひ)の木、魚(うお)は鯛」

 「めでたい」に通じる縁起のよさ、見た目のよさ、味のよさと3拍子そろった鯛は江戸時代になって鯉を抜いて、魚界ナンバーワンの座に輝く。将軍家でも喜ばれた鯛は、「大位」【「タイイ」→「タイ」】と当て字をされもてはやされた(当時、海から遠い京都では鯉が宮中で食され「高位」【「コウイ」→「コイ」】などと呼ばれていた)。

 そんな鯛の魅力をとことん書き尽くした料理本が天明5年(1785年)に刊行される。『鯛百珍料理秘密箱』。作者は景甫(と言っても彼は情報収集し、文を書いたのは「器土堂の翁」と呼ばれた人)。名門の屋敷の蔵などに秘蔵されている本を訪ね歩き、そして各地の名物を食べ歩きながら、すべてにわたり広く集めたものだ。大ベストセラーとなり、発行元は江戸、大阪、伊勢の国で各1軒、京都の3軒が名を連ねるほどだった。

 江戸城では大量の魚介類が消費された。例えば、天保6年(1835)の十五夜月見の日には、日本橋魚市場から鯛170、かれい700、あわび800、伊勢海老1200が納められ、「新肴場(しんさかなば)」(略して「新場」。1670年代に開市。日本橋魚河岸に、距離が遠く鮮度が落ちることを理由に安く魚を買いたたかれていた武州や相模の漁民が、勘定奉行に陳情し、日本橋とは別に、楓川沿いの本材木町に魚市場を開く許可を勝ち取った)や「芝雑魚場(しばざこば)」(芝浦、金杉浦は、将軍家に海産物を上納していた「御菜(おさい)八ヶ浦」(芝金杉浦・本芝浦・品川浦・大井御林浦・羽田浦・生麦浦・子安新宿浦・神奈川浦)のうちのひとつ。その漁民たちが、東海道往還に出て雑魚を中心に商いをしたことから、この名で呼ばれるようになった。古典落語「芝浜」の舞台。将軍家へ納めた魚の残りを扱っていて、江戸幕府の御用市場とされた日本橋の魚市場とは違う庶民的な市場だった。)など他の魚市場の分も加えると、さらに多い数量だった。

 そして江戸城で特に需要が高かったのが鯛。そのため、魚河岸が出来たころ「活鯛屋敷(いきだいやしき)」と呼ぶ施設ができた。大きな生簀(いけす)を設けて公儀御用の高級魚を生かしておいた「肴役所(さかなやくしよ)」を俗称したもので,場所は魚河岸に隣接する江戸橋広小路の一角,江戸橋南詰の西側(現在の日本橋郵便局辺りが活鯛屋敷の跡地)であった。

 また江戸橋から三町(約300m)先の平松町に「魚仙」という江戸後期に名の知れた料理茶屋があった。その名の通り新鮮な魚料理、特に生簀に常時魚を飼っておき、生きたままの状態で刺身にして出す「活け作り」が得意な店として評判だった。

 (広重「魚尽くし 鯛、山椒」 )

(丹羽桃渓「鯛」)


(文浪「えびす」)


(豊原国周「商人七福神 蛭子」)

(国貞「江戸名所百人美女 呉服ばし」)


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