「日本橋 魚市場」②佃島

 江戸幕府は、寛永年間(1624~44年)の頃、佃嶋の漁師に鯛を筆頭に35種の魚介類を江戸城内の膳所へ献上させていた。そして、彼らはその帰途に余った魚を日本橋の北詰の本小田原町で販売することが認可された。これが築地以前の江戸の魚市場、日本橋魚河岸の始まりである。ではなぜ、佃島の漁師にそのような特権が与えられたか。それは、徳川家康の生涯最大の危機と言われた「神君伊賀越え」に関わる。

 天正10年6月2日(1582年6月21日)、本能寺の変が勃発。上方を遊覧していた徳川家康は、この日信長への御礼言上のため堺を発って京都へ向かっていた。その途上でこの報に接した家康は驚愕し、取り乱す。「弔い合戦をしたくてもこの人数、土民の槍に掛かって果てるよりは京都知恩院に入ってそこで腹を切ろう」と一旦は死を決意。しかし、家臣の本多忠勝から「信長公への報恩は、何としてでも本国へ戻り、軍勢を催して明智を誅伐すること」と説得され同意。わずか34名の供回りで伊賀国を経由して、三河への帰還を果たす。

 佃島の漁師と家康のかかわりは、家康が堺を出発した直後に生まれる。摂津国神崎川で渡る船がなくて家康一行が困っていたところ、地元佃村(現:大阪市西淀川区佃町)の庄屋、森孫右衛門が漁船を用立てたのだ。これに感謝した家康の招きで、慶長十七年(1612)、森孫右衛門は漁師32名を引き連れて江戸に移り住んだ。そして、正保元年(1644)には干潟百間四方を拝領して宅地を造成し、そこを出身地佃村の名をとって佃島と命名した。

 佃島の漁師たちは、11月から3月までの白魚シーズン中、将軍の食膳のために白魚を毎朝届けることなどを命じられ、その見返りとして、江戸近辺のどこでも漁ができる許可が与えられた。しかし、家康が彼らを江戸に呼び寄せ、特権を与えた理由を「伊賀越え」時の恩賞とだけとらえるのは一面的すぎよう。当時江戸は急速に人口が増加しつつあり、住民の食糧確保が焦眉の課題となっていた。江戸は、目の前に魚介類が豊富に取れる江戸湊があったが、江戸の需要を満たすだけの大量の漁獲ができる漁師はいなかった。江戸近辺の漁師の漁業技術は、必要量を賄うだけの高いレベルには達していなかったのだ。そこで家康は、最先端の技術である上方の漁法を導入し、江戸の漁業生産の大幅な拡大を意図して、摂津国佃村の漁師を招聘することにしたのが真相ではないか。

 それはともかく、「春の使者」と呼ばれた早春の江戸の風物詩、佃島の白魚漁。隅田川の川筋から佃島、さらには永代沖から品川あたりにかけて、夜、篝火をたいた白魚船(しらおぶね)が出た。高輪や品川あたりの妓楼から眺める白魚火(しらおび)はどれほど美しかったことだろうか。江戸にトリップして味わいたいことのひとつである。

 (広重「江戸名所之内 永代橋佃沖漁舟」)部分

(国芳「東都富士見三十六景 佃沖晴天の不二」)

(広重「絵本江戸土産 佃白魚網夜景」)

(広重「名所江戸百景 永代橋佃しま」)

(高橋弘明「白魚漁」)

(北斎「富嶽三十六景 武陽佃島」)

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