「日本橋 魚市場」①築地80年日本橋300年
ついに魚市場が築地から豊洲に移転した。それ以前の場所から魚市場が築地に移転したのは1933年(昭和8年)。その2年後の1935年に正式に「東京都中央卸売市場築地本場」が開業。ということは、築地市場は83年間続いたことになる。では、築地以前に魚市場はどこにあったか。日本橋だ。日本橋の北詰 東側に「日本橋魚市場発祥地碑」が建っている。そこにはこんなことが書かれている。
「昔から 東京湾でとれる魚を売りさばくために, 日本橋に魚河岸ができていた。 この頃の市場は 漁民が自分で商っていた。徳川家康が江戸に幕府を開いた際, 摂津の佃村・大和田村から数十名の漁民を江戸に移り 住ませて 江戸城で消費する魚をとらせた。幕府に納めた残りの魚を 一般に販売するために, 魚をとる人と 商う人が分離されて, 本格的な魚市場になり, 諸国からの海産物も入荷するようになって 大いに賑わった。この魚河岸は 明治・大正時代まで 300年余り続いたが, 関東大震災により 魚市場は 築地に移転を余儀なくされた。」
日本橋魚市場の発端は、摂津国佃島の漁師が、幕府へ献上した残りの魚をこの地で販売する許可を得たことにあるが、それは天正18年(1590)のこと。それから1933年まで続いたのだから、約340年。築地の4倍だ。やはり、移転にあたってはひと悶着あったようだ。1924(大正13)年3月30日付の朝日新聞の記事は、「銀座松本楼を襲撃す」の見出しでこう記している。
「魚市場問題で怒った市場の働き手1千~2千人が、東京市会(議会)に押し寄せて気勢を上げ、(自分たちに不利な)議案が可決されたのを知ると大騒ぎになった。憤激のあまり議案に賛成した(と彼らが思い込んだ)小坂梅吉議員に報復しようと、小坂氏の経営する料理店の銀座松本楼を襲撃、石やれんがを投げつけ店をめちゃめちゃに破壊。警察が動き首謀者を拘束して警戒にあたると、ようやくこの夜の騒ぎは収まった」豊洲移転も時間がたてが落ち着くのだろうか。
ところで、日本橋が平川(後の日本橋川)に、はじめて架橋されたのは慶長8年(1603)といわれている。江戸初期に、ここ日本橋を起点として五街道が整備され、日本橋の周辺には問屋が多く、日本橋川沿いには倉庫が立ち並び、江戸の商業の中心地となった。北岸の本船町、本小田原町などには魚市場(魚河岸)があり、幕府への納魚と江戸中の魚商売の中心としてにぎわった。江戸の人口の急増とともに魚市場は繁盛し、元禄以降には魚市場は朝千両、芝居小屋は昼千両、吉原遊廓は夜千両ともいわれるほどだった。 『江戸名所図会』(天保5-7 [1834-1836]刊)にはこんな記述がある。
「漕ぎつだふ魚船の出入、旦(あした)より暮に噭々(がうがう)として囂(かまびす)し」
「遠近の浦々より海陸のけぢめもなく鱗魚(りんぎょ)をここに運送して日夜に市をたてて甚だ賑(にぎは)へり」
その賑わいぶりは、『江戸名所図会 日本橋魚市』や歌川国安「日本橋魚市繁栄図」、渓斎英泉「木曽街道続ノ壱 日本橋雪之曙」、広重「東都名所 日本橋真景并ニ魚市全図」、広重「東都名所 日本橋魚市」、落合芳幾「江戸みやけの内 日本ばし魚市」などからうかがえる。
(歌川国安「日本橋魚市繁栄図」)全体
(歌川国安「日本橋魚市繁栄図」)3枚の内、左部分
(『江戸名所図会 日本橋魚市』)部分
(渓斎英泉「木曽街道続ノ壱 日本橋雪之曙」)
(広重「東都名所 日本橋真景并ニ魚市全図」)
(広重「東都名所 日本橋魚市」)
(落合芳幾「江戸みやけの内 日本ばし魚市」)
(「日本橋魚市場発祥地碑」)
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