「パリ旅行とモーツァルト」②母の死

 モーツアルトのパリ滞在中、「パリ交響曲」と呼ばれている「交響曲31番」の初演が大喝采を博すなど、嬉しいこともなくはなかった。しかし、長年父親の管理下にあって世事に疎い彼は、百戦錬磨の興行師や悪賢い貴族(多くのパリ貴族には、フランス中華思想に起因する、当時のドイツ系音楽家に対して蔑視の風潮があった)に利用され、心身ともにさいなまれてゆく。15年前の最初のパリ訪問時にモーツァルトの才能を認め、モーツァルト一家を厚遇してくれたグリム男爵はこんな手紙をレオポルトに送る。

「息子さんは誠実に過ぎ、ひとに騙されやすいことはこの上なく、成功に結びつきそうな諸事には無頓着すぎます。この地で名を売るためには、狡猾で、起業精神に富み、向こう見ずでなければなりません。彼が出世するためには、才能は今の半分でよろしい。そのかわり、いまの倍は世知にたけていてくれたらと思います」(1778年7月27日付)

 モーツアルトは父の勧めで、人脈作りのために貴族宅を訪問したり、知り合いと旧交を温めようとするが成果は得られない。そんな彼に追い打ちをかけるように悲しい出来事が起きる。最愛の母の死。悪路の旅で疲れ果て、パリに着いてからも独り見棄てられたような孤独の日々を過ごしていた母が病に倒れる。そして、1778年7月3日の夜更け、息子にみとられながら、安宿の一室で息をひきとった。モーツアルトは父に手紙で知らせる。

「最愛のお父さん!非常にいやな、悲しいお知らせをしなくてはなりません。お母さんが重態です。・・・とても衰弱して、まだ熱があり、うわごとを言います。望みはあると人は言いますが、僕はあまり期待していません。・・・すべて神の御心におまかせしています」(1778年7月3日付)

 父に衝撃を与えないよう、気持ちに準備期間を与えようという22歳のモーツァルトの痛ましいまでの配慮。しかし、直後に書いたヨーゼフ・ブリンガー神父宛の手紙には本音を吐く。

「友よ、ぼくとともに悲しんでくれ。今日は、僕の生涯でもっとも悲しい日だった。この手紙は、夜半の二時に書いている。・・・僕の母、愛する母はもういない。」

 就職活動の失敗、アロイージアとの失恋、母の死。ザルツブルク宮廷楽師長を辞め、背水の陣で臨んだ1年4カ月のマンハイム・パリ旅行は、見るも無残な結果に終わった。幼き日に「神童」と称えられ、はた目には順風満帆の人生を謳歌してきた天才児が味わった痛切な挫折体験。しかし、この体験がモーツァルトを自立させ、劇的に変貌させ、新たな境地へと導くのである。

 (「サン・トゥスタシュ教会 パリ」) ここでモーツァルトの母の葬儀が行われた

(パリ中心部にあったサン・イノサン墓地) モーツァルトの母はここに埋葬されたと言われる


(イノサン公園の泉水) かつてイノサン墓地があった場所

(作者不明「モーツァルトの肖像画 1777年」)

(1850年 テュイルリー宮殿) 

 1778年6月18日、ここの「スイスの間」で「パリ交響曲」が演奏され、成功を博した。

(クローチェ「モーツァルト一家の肖像画」) 亡くなっていた母親は画中の肖像として描かれている

(ヴィジェ・ルブラン「マリー・アントワネット 1778」ウィーン美術史美術館)

モーツァルトが母を亡くした1778年の12月19日、マリー・アントワネットはヴェルサイユ宮殿で結婚8年目にしてようやく長女を出産。このとき23歳。

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