「パリ旅行とモーツァルト」①初恋、失恋
モーツァルトをザルツブルクから放逐した人物として音楽史に名を留めるザルツブルク大司教コロレド伯爵。放漫財政の立て直しに辣腕を振るい、改革派として大いに実績を挙げたが、モーツァルトにとっては天敵でしかなかった。モーツァルトの鬱屈した思いは募っていく。
「ザルツブルクは、ぼくの才能を生かせる場所ではありません。第一に、そこでは音楽家たちが全く尊敬されていないからです。そして第二に、ここには人々の聴く音楽がなく、劇場もオペラもないからです。」(1778年8月7日付手紙)
ついにモーツァルトはザルツブルク宮廷楽士長の職を辞し、母と二人(父レオポルトは体調不良のため残る)でパリへ向かう(1777年9月23日)。モーツァルトにとって、生まれて初めて父の厳しい日常管理、桎梏から解放された旅。父が細かくたてた旅行経路から外れて立ち寄ったマンハイムで、モーツァルトは16歳の美しく才能豊かな少女と出会う。アロイジア・ウェーバー。彼女の父親はマンハイム宮廷劇場でバス歌手兼プロンプターだったが、かたわら写譜の仕事を請け負って生計を立てていた。モーツァルトは写譜の仕事を通じてウェーバー家と付き合うようになり、次女のアロイージアに夢中になる(後にモーツァルトの妻になるのが三女コンスタンツェ)。モーツァルトの母は動転する。
「彼らと知り合いになってから、あの子は変わってしまった。私よりも、ほかの人たちとばかり一緒に居たがるのです。」(夫レオポルト宛手紙)
モーツアルトは、アロイジアを連れてイタリアに行き、そこで彼女のためにオペラを書きたい、そして恵まれないウェーバー家の家族を幸せにしてやりたいなどと言い出す。結局、主目的地であるパリ行きを前にしてマンハイムに4カ月半も居座ってしまう。父レオポルトは怒り心頭に発した。
「他人の利益のために、自分の名声や利益はおろか、年とった正直者の両親の利益や、してあげなくてはならない援助まで犠牲にするつもりなのか。・・・この旅の目的は二つあったはずだ。永続きする勤め口を探すこと、もしそれが成功しなかったら、いい稼ぎのある大きな町に行くこと。・・・パリに立ちなさい!それも今すぐに。・・・パリでお金と名声を手に入れなさい。」
1778年3月14日、ようやくモーツァルト母子はパリへと出発することになった。
「ウェーバー嬢は心を込めて、ぼくにレースで袖飾りを二組編んでくれました。・・・ぼくが発つとき、みんな泣きました。」(1778年3月24日付手紙)
しかしそんなアロイジアからの便りも次第に間遠になり、やがてぷっつり途絶えてしまう。「あなたの便りだけがぼくの慰め」と、モーツァルトは繰り返し訴えの手紙を書くがなしのつぶて。美人で才能があり、抜け目のなかったアロイジアは、パリで苦闘を続け、成功の見込みのなさそうな小男のモーツァルトに見切りをつけようとしていたようだ。やがて彼女の前に美男の誉れ高い舞台俳優ヨーゼフ・ランゲ(有名なモーツァルトの肖像画を残している)が現れ、二人は結婚してウィーンに去る。思うような成果が得られず、パリでどん底のような生活を送っていたモーツァルトにとって、失恋を予感させるアロイジアの心変わりは致命的ともいえる傷を与えた。
(ヨーゼフ・ランゲ「モーツァルト 1783年」)
(ヨハン・バプティスト・フォン・ランピ「アロイージア・ウェーバー」)
(「アロイージア・ウェーバー」)
(マンハイムの城館)
(ジョゼフ・デュプレシ「ルイ16世 1777年頃」ヴェルサイユ宮殿)
1774年5月10日にルイ16世がフランス国王となり、1775年、ランスのノートルダム大聖堂で戴冠式を行った。1778年にはマリー・アントワネットとの間に長女マリー・テレーズが生まれた。
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