「ザルツブルクからウィーンへ」①

  パリ旅行からの帰途、モーツァルトは父にこんな手紙を書く。

「僕の名誉にかけて、誓って言いますが、僕はザルツブルクとその住民たち(生まれながらのザルツブルク出身の連中)に、もうがまんできません。彼らの語り口や生活ぶりが耐えがたいのです」(1779年1月8日付)

 ザルツブルクに戻り、父の計らいで宮廷オルガン奏者というポスト(給料は以前の楽師長時代の3倍)を手に入れたものの、コロレド大司教との関係は悪化の一途。そんなモーツァルトに彼を舞い上がらせる知らせがミュンヘンの宮廷から届く。オペラの作曲依頼である。驚喜してこの企画に取り組み、作曲の仕上げと上演のためにミュンヘンへ向かう。コロレド大司教から6週間という公式の休暇をもらって。初めての一人旅。「歌劇クレタの王イドメネオ」の上演は大成功。

 久しぶりの成功に酔いしれるモーツァルト。季節は謝肉祭(カーニバル)。ミュンヘンのそれは古来格別な美しさで知られる。またザルツブルクにコロレドはいない。1780年10月29日マリア・テレジアが世を去ったためにウィーン宮廷に伺候しているためだ。祭り好きのモーツァルトはミュンヘンに居座ってしまう。6週間の休暇期間はとうに過ぎ、4ヵ月になろうとしている。2ヵ月半に及ぶ無届欠勤。怒ったコロレドはモーツァルトをミュンヘンに呼びつける。天才音楽家を側に置くことで自分の権威誇示に役立てるとともに、勝手気ままな振る舞いをさせないようにするために。ミュンヘンではホストであるバイエルン候と同席を許されることすらあった。しかし、コロレドは天才音楽家モーツァルトをあくまで一介の楽師としてしか扱わない。料理人と同じ扱い。募る屈辱感。やがて両者は公然と口論を始める。 「あいつはぼくに、『お前ほどだらしない若僧は見たことがない、お前のように勤務態度が悪い人間は一人もいない』と言うのです。・・・『馬鹿め、馬鹿め!出て行け。いいか、貴様のように見下げた小僧に、もう用はないぞ』・・・とうとう僕も言いました。『こちらもあなたにもう用がありません』・・・『さあ、出て行け』」(1781年5月9日付手紙)

 モーツァルトは、ウィーンで自立する決意を固める。

 (「モーツァルト広場」 ザルツブルク) 中央に建つのがモーツアルト像

(ザルツブルクの街並み)

(ヨハン・ゲオルク・ツィーゼニス「カール・テオドール」プファルツ選帝侯博物館 ハイデルベルク) マンハイムの宮廷(プファルツ選帝侯)からバイエルン選帝侯として破格の出世をした

(コロレド大司教)

(マリア・テレジアの崩御)

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