「マリア・テレジアとモーツァルト」③
モーツァルトは1781年からウィーンに定住するが、それ以前に3度ウィーン旅行を行っている。最初は御前演奏を行った時(1762年)、2度目は3年5カ月に及んだヨーロッパ縦断旅行の後(1767年~69年)。目的は皇女の婚儀の祝典で、宮廷・貴族に神童から天才少年音楽家に変身しようというモーツァルトを披露すること。婚儀とはマリア・テレジアの九女マリア・ヨーゼファとナポリ公フェルディナントとの結婚。ところが代理結婚式当日、突然マリア・ヨーゼファは死去。原因は天然痘。この時、ウィーンに大流行。マリア・テレジアも罹った。罹患を恐れてウィーンからオロモーツに避難したモーツアルト一家だったがすでにモーツァルトも姉のナンネルも罹患。ある貴族の好意とその侍医の努力で、最悪の事態は避けられたが、モーツァルトにはあばたが生涯残った。ウィーンに戻って宮廷に伺候したモーツアルトの母親はマリア・テレジアと母としての想いを語り合う。
「皇太后陛下がどんなに親しげに家内とお話になり、一つには子どもたちの天然痘について、一つには私たちの大旅行のこまごまとした事柄について語り合われたかをご想像いただくことは不可能だということです。陛下が家内の頬をさすられたり、腕をおつかみになったりなさったこともご想像できますまい。」(1768年1月23日付レオポルトの手紙)
この時点でマリア・テレジアは夫を亡くしており、1765年から息子ヨーゼフ2世と共同統治をおこなっていた。そのヨーゼフ2世から念願のオペラ作曲の依頼が来る。
「この御方(皇帝ヨーゼフ2世)は、ヴォルフガンゲルに 二度も、オペラを一つ作曲し、自分で指揮してみるつもりはないかとお尋ねになりました。あの子ははっきりとやって みたいと申しました。」(1768年1月30日付レオポルトの手紙)
そしてオペラ・ブッファ『みてくれの馬鹿娘』が完成。しかし激しい妨害運動にあい、12歳の作曲家の喜歌劇は上演には至らなかった。 ただし、このウィーン滞在で成果がなかったわけではない。レンヴェーク孤児院教会(この孤児院はマリア・テレジアの庇護の下に数多くの孤児たちを収容して非常に名高かった)の献堂式のために依頼された『孤児院ミサ』作曲・演奏である。
「12月7日に、・・・・皇族の御列席をえて、ヴォルフガングが演奏をとり行い、あの子自身指揮をいたしましたミサ曲は、敵どもがオペラを妨害することで台なしにしようとしましたものを再びとりもどしましたし、びっくりするほどの大入りでしたので、私どもの敵手たちの悪意を、宮廷にもまた聴衆にも確認させたものでした。」(1768年12月14日付レオポルトの手紙)
その後、モーツァルトは13歳でザルツブルク宮廷楽団コンツェルトマイスター(無給、後に有給になる)になるとともに、イタリアでのオペラ修業を続け、再び(3度目)ウィーンを訪れる(1772年)。この時もマリア・テレジアに拝謁するが、やはりオペラの作曲依頼も仕事の依頼もなかった。レオポルトは無念さを込めて記す。
「女帝陛下は私たちにとても好意をお持ちでした。でもそれですべてでした。」(1773年8月5日付レオポルトの手紙)
(モーツァルトの母マリア・アンナとマリア・テレジア)
(皇帝ヨーゼフ2世)
(レンヴェーク孤児院教会)ウィーン
(レンヴェーク孤児院教会のモーツァルト記念銘板)
(サヴェリオ・ダッラ・ローザ「モーツァルト 14歳」)
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