「マリア・テレジアとモーツァルト」②

 1776年、ミラノにあった宮廷劇場テアトロ・ドゥカーレが火事で焼失。新たに建設されたのが「スカラ座」である。名前の由来は、建設された場所に以前サンタ・マリア・アッラ・スカラ教会があったから。庶民も入場できる新しいオペラ座の建設を命じたのはマリア・テレジア。ミラノは、18世紀初頭のスペイン継承戦争後、1714年のラシュタット条約によってオーストリア・ハプスブルク家に帰属していた。

 このようにマリア・テレジアは芸術に理解がなかったわけではない(統治の手段という側面が強いが)。しかし、四男フェルディナント大公が「モーツァルト(15歳)を宮廷劇場(ミラノ)で召しかかえたい」と求めてきた時、こう言って拒絶した。

「あなたは若いザルツブルク人を自分のために雇うのを求めていますね。私にはどうしてかわからないし、あなたが作曲家とか無用な人間を必要としているとは信じられません。・・・あなたに無用な人間を養わないように、そして決してあなたのもとで働くようなこうした人たちに肩書など与えてはなりません。乞食のように世の中を渡り歩いているような人たちは、奉公人たちに悪影響を及ぼすことになります。・・・」(1771年12月12日付マリア・テレジアのフェルディナント大公宛の手紙)

 「乞食のように世の中を渡り歩いている」とは強烈な表現だ。なぜこんな表現をしたのか。最初の御前演奏(1762年10月13日)からこの手紙までの9年の間にモーツァルト親子はのべ6年間旅を続けた。特に、御前演奏の翌年から行われたヨーロッパ縦断旅行は、なんと3年5カ月に及んだ。父レオポルトはザルツブルク宮廷楽団副楽長という立場にあったにもかかわらずである。そんなことが可能だったのは、当時のザルツブルク大司教が「寛大な司教」と言われたシュラッテンバッハ伯だったから。伯爵がレオポルトの長期の休暇願を容認したからモーツァルト親子は長期の演奏旅行を続けることが可能だったのだ。

 しかしマリア・テレジアが「女帝」として推し進めていたのは中央集権化。各地方の貴族や領主たちが、皇帝の意志を顧みず、勝手放題に支配していたのを、国家が全権限を掌握し、君主の決定がそのまま国家全域に伝達されるような体制に変革することだった。だから、1771年12月16日(先のマリア・テレジアの手紙のわずか2カ月後)に亡くなったシュラッテンバッハ伯の後任となったコロレド大司教がモーツァルトの天敵のように対立するのもこの点から考える必要がある。彼は前任者のように寛大ではなく、以後モーツァルトにとっては忌まわしい人物となり、ついには大喧嘩の末、1781年、モーツァルトがウィーンに定住する原因をつくった。モーツァルトが希に見る大天才であることを見抜けなかったことは事実であるが、宮廷に仕える音楽家に対する普通の処遇をしようとしただけなのだ。マリア・テレジアの構想に忠実な地方官僚だったのだ。

 ところで、シュラッテンバッハ伯が大司教だったのは1753年~1771年。モーツアルトが生まれる3年前から15歳まで。その間に、レオポルトはヨーロッパ縦断旅行(7歳~10歳 3年5カ月)、第1回ウィーン旅行(11歳~12歳 1年4カ月)、イタリア旅行(13歳~15歳 1年2カ月)を行い、モーツァルトの才能を開花させ、偉大な音楽家に成長させた。その意味ではシュラッテンバッハ伯の功績の大きさはいくら強調しても強調しすぎることはないだろうが。

 (ミラノ・スカラ座)外観

(ミラノ・スカラ座)内部


(シュラッテンバッハ大司教)

(コロレド大司教)

(バーバラ・クラフト「モーツァルト」)

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