「マリア・テレジアとモーツァルト」①
モーツァルトの生涯は35年10カ月9日=13097日。そのうち旅に費やした日数は10年2カ月8日=3720日。なんと生涯の28.4%を旅に費やしているのだ。当時の旅は今とはまるで違う。死と背中合わせの過酷な環境。そのような旅をモーツァルトが人生の三分の一近くの長きにわたって経験することになったのはなぜか?父親レオポルトの野心と願望だ。ザルツブルクの宮廷内で宮廷楽団副楽長というほどほどの地位を得ていたレオポルト。娘ナンネルの楽才を発見し、さらにはヴォルフガンク(モーツァルト)の尋常ならざる才能を認めた時、彼の野心は実現可能性のある夢へとその姿を変えた。その夢とは、大国の宮廷で楽長の地位を得ること。わが身が無理であれば、息子をその地位につかせ、自らはその後見人として権勢をほしいままにすること。こうしてレオポルトの新天地を模索する旅は始まった。
1762年9月18日、一家4人はザルツブルグを出発してウィーンへ向かう。この時、モーツァルト5歳。パッサウを経て、9月26日リンツに到着。10月1日にはコンサートを開く。パッサウからリンツまで同行したヘルベンシュタイン伯爵は、一家に先立ってウィーンに発ち、やがてザルツブルクの神童がやってくるとのニュースをウィーン中に広めてくれた。10月6日一家はウィーンに到着。すぐに宮廷に伺候せよとの命令が届く。10月13日、親子はシェーンブルン宮殿で妙技を披露し、女帝マリア・テレジアの賞賛を得る。
「私たちは女帝陛下をはじめとして、この上ない御好意を持って迎えられました。私たちの話は作り話と思われることでしょう。ヴォルフェルは女帝陛下のお膝に飛び乗り、お首に抱きついて気のすむまでしたたかキスをしたのです。」(10月16日父レオポルトの手紙)
宮殿の床で滑ってころんだモーツァルトを抱き起してくれた皇女マリー・アントワネットに、「ありがとう。大きくなったら結婚してあげる」と言ったという伝説も、このとき誕生している。
しかし、マリア・テレジアがどこまでモーツァルトの才能を理解していたかは疑わしい。確かに「御前演奏」の謝礼として100ドゥカーテン(ザルツブルク宮廷音楽家としてのレオポルトの年俸のほぼ倍額!)が下賜され、マリア・テレジアの五男マキシミリアンの大礼服がモーツァルトに贈られた。しかし、実態は次のようなものだっただろう。
「おそらくマリア・テレジアがヴォルフガングの中に見ていたものは、要するに、めったにお目にかかることができない芸術的才能だけであって、招待の趣旨は、わが子の目と耳をそれによって楽しませてやろうという親心=見世物的気分によるものであった。レオポルトが期待していたような、未来に向かって炎を上げようとする音楽の篝火ではなかった」(ベルンハルト・パウムガルトナー『モーツァルト』)
しかし、神童モーツァルトの評判はウィーン中に鳴り響き、「完全な成功をもたらした」と有頂天になったレオポルトは、その後30年近くにわたってかなえられることのない夢を追い続けることになる。
(シェーンブルン宮殿での御前演奏)
(シェーンブルン宮殿での御前演奏)
(シェーンブルン宮殿)
(シェーンブルン宮殿「鏡の間」)
(大礼服のモーツァルト 6歳)
(父レオポルト)
(演奏するモーツァルト父子)1763年パリ
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