マリア・テレジアVSフリードリヒ2世③ 婚姻政策

 マリア・テレジアは、フランス・ブルボン家との同盟関係を強化するために、息子の嫁をブルボン家からめとり、娘たちをブルボン家に嫁がせた。長男ヨーゼフはパルマ公イザベラ、三男レオポルト2世はスペイン王女マリア・ルドヴィカ、六女マリア・アマーリエはパルマ公フェルディナント、十女マリア・カロリーネはナポリ公フェルディナント4世、十一女マリー・アントワネットはフランス王ルイ16世。

 それが可能になったのはもちろんそれだけ子だくさんだったから。マリア・テレジアはフランツとの幸福な結婚生活の間に16度懐妊し、16人出産した。その間19年10カ月。20年弱の間になんと16人!しかもこの20年という歳月は、平穏な日々ではない。オーストリア継承戦争というオーストリアが未曾有の国家的危機に陥り、彼女自身も絶壁のぎりぎりまで追い詰められていた時期が含まれる。そのような苦難の中で、妊娠と出産を繰り返していたのだから驚くばかりだ。もちろん彼女がそれほどまでに子宝作りに励んだのは、苦心惨憺たる思いをさせられたオーストリア継承戦争の最大の原因が、父帝カール6世に嫡男がなかったことにあることを痛感していたからだが。

 子どもは生まれても成人するとは限らない。マリア・テレジアの場合も16人出産したが、6人はせいぜい10歳そこそこで死亡。その原因のほとんどは、当時の最大の疫病だった天然痘。実はマリー・アントワネットがフランス王太子妃になったのもこのことと関係する。当初、フランス王太子に嫁ぐことになっていたのは、姉の十女マリア・カロリーネだった。それが、ナポリ公フェルディナント4世の結婚相手に決まっていた八女マリア・ヨハンナが12歳で死去。代わりに選ばれた九女マリア・ヨーゼファも、なんと代理結婚式当日に天然痘で亡くなってしまった。そこで急遽、十女マリア・カロリーネが選ばれ、マリー・アントワネットが姉の代わりにフランスへ嫁ぐことになったのだ。

 このように必政治上、外交上の必要性もあって多くの子どもを産んだマリア・テレジアだったが、夫フランツとは、世に知られたおしどり夫婦だった。二人は、王侯たちの間で結ばれる縁組ではめったにない恋愛結婚によって夫婦となった。それだけにフランツの突然の死は彼女には衝撃だった。美しいふさふさとした髪を短く切り、寝室の壁を灰色の絹で覆い、カーテンも灰色に取り替えてしまった。かつて宮廷を華やかに彩った色彩鮮やかな衣服も、親しい人々に分け与え、自分は死ぬまでの15年間決して喪服を脱ぐことはなかった。彼女はある祈祷書にこう書き付けている。

「私の幸福な結婚生活は、29年6か月6日間だった。彼と結ばれたと同じ時間に、同じ日曜日に、突然、彼は私の手から奪い取られてしまった。」

 1765年8月の夫との死別をもって、彼女の前半生は終わったのである。

 (1756年 「マリア・テレジアと家族」フィレンツェ ピッティ美術館)

(「皇帝一家のサンタクロースの贈り物」マリー・クリスティーネ) 

 マリア・テレジア一家の団欒を四女マリー・クリスティーネが描いている。人形を持った少女は7歳のマリー・アントワネット

(7歳のマリー・アントワネット)

(1759「マリア・テレジア」メイテンス)

(1762「マリア・テレジア」リオタール)

(1772 「マリア・テレジア」アントン・フォン・マロン)

(1775「マリア・テレジアと息子たち」モーリス)

(シェーン・ブルン宮殿「漆塗りの間」)亡き夫フランツ・シュテファンを追悼する部屋  黒が基調

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