マリア・テレジアVSフリードリヒ2世② 「外交革命」

  不倶戴天の敵プロイセンには立ち向かうには、内政改革、軍制改革だけでは不十分。一緒になってプロイセンを追い詰める同盟国が不可欠である。1749年3月7日、今後のオーストリアがとるべき外交政策について秘密会議がもたれた。その席で、その場にいた誰もが(ただし、マリア・テレジアを除いて)わが耳を疑うような提案を行った男がいた。ヴェンツェル・フォン・カウニッツ伯爵。彼は言う。

「シュレージエンを奪回する唯一の方法は、同盟関係をイギリスからフランスに転換することである。」

 フランスはハプスブルク家の300年来の宿敵。そんな国と同盟を結ぶだって?そんな馬鹿なことがと、だれもがいぶかった。しかし周囲の驚きをしり目に、カウニッツは静かに語り続ける。 

「とても実現しそうにない、という理由だけで実行されないものが多数ある。だが実行されないという理由だけで困難とされるものの方が、はるかに多い。」

 けだし名言である。マリア・テレジアは、同盟国の相手を長年の友好国イギリスから300年来の宿敵フランスに転換するという、コペルニクス的転換を決定した。世界史上「外交革命」と呼ばれる。 しかし、実際にオーストリア=フランス同盟が調印されるのはこの閣議決定の7年後。その7年は、マリア・テレジアにとって、またカウニッツにとって苦難続きの歳月だった。

 マリア・テレジアの全権を帯びてカウニッツは大使としてヴェルサイユに乗り込む。彼は絢爛豪華なヴェルサイユ宮殿で仕事をするにはまさにうってつけだった。外交官としての豊かな経験(トリノやネーデルラント)と巧みな人物の操縦法、古典から現代に通じた多彩な教養、フランス文化への愛好、人を魅了する社交術、才気煥発な話術。彼が話すフランス語は、生粋のフランス人のように流暢で洗練されていた。しかし、ルイ15世も外務大臣フルーリ枢機卿も300年来の宿敵オーストリアとの同盟など、一顧だにする価値のないことと考えている。突破口はどこにあるか。ルイ15世に極めて近く、万能の王に対してさえ発言力のある人物で、しかもプロイセン王に反感を抱いている人物。その条件にぴったり当てはまる人物が存在した。ルイ15世の寵姫ポンパドール夫人だ。しかし急いては事を仕損じる。現時点での同盟国イギリスはもとより、プロイセンにも全く感づかれないうちにフランスと密かに通じなければならない。諜報網が十重二十重と張り巡らされているヴェルサイユで、イギリスの優秀なスパイにいささかも怪しまれないように振る舞いながら、猜疑心の強いルイ15世に、それとなくマリア・テレジアの真意を伝えなくてはならない。カウニッツは、ゆったり、悠然たる態度で、ヴェルサイユ宮殿で確固とした地位を確立してゆく。そしてついに1756年5月1日、外交革命と呼ばれるオーストリア=同盟フランス(ハプスブルク=ブルボン同盟)が成立。すでに同盟関係にあったエリザベータ女帝のロシアも加えた、俗にいう「三枚のペチコート作戦」。こうしてフリードリヒ包囲網が敷かれることになったのである。

 (フランソワ・ブーシェ「ポンパドール侯爵夫人」アルテ・ピナコテーク )部分

フリードリヒ2世は「あばずれ女めが、王の寝室に出入りする」と侮辱した

(フランソワ・ブーシェ「ポンパドール侯爵夫人」アルテ・ピナコテーク )全体

(マリー・カンタン・ド・ラ・トゥール「ポンパドール侯爵夫人」ルーヴル美術館)

(カウニッツ伯爵)

(ルイ・トッケ「エリザベータ女帝」エルミタージュ美術館)

 フリードリヒ2世は「好色なメス豚」とこき下ろした

(ヨハン・ゲオルク・ツィーゼニス「フリードリヒ2世 1763年頃」)

大の女嫌いのフリードリヒ。王妃すら、自分の居城のサン・スーシ宮殿に決して入れなかった。

(「サン・スーシ宮殿」ポツダム)

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