マリア・テレジアVSフリードリヒ2世① 内政改革
オーストリア継承戦争(1740年~48年)の間に、マリア・テレジアはハンガリー女王(1741年)、ボヘミア女王(1743年)への戴冠を行った。また1745年には、彼女の夫フランツ・シュテファンがフランツ1世として神聖ローマ帝国皇帝に選ばれた。皇帝の権限は事実上マリア・テレジアが行使したため、一般に「女帝」マリア・テレジアといわれるが、公式には彼女は女帝(Kaiserin)ではなく、皇帝妃であった。
しかし、オーストリア継承戦争が終わっても、プロイセンが奪ったシュレージエンは、ついにハプスブルク家には戻らなかった(1748年「アーヘンの和」)。マリア・テレジアはこのことを片時も忘れなかった。フリードリヒ2世を「シュレージエン泥棒」と呼んで憎悪し、いかにすればあの商工業の発達した領地を取り戻せるかと、日夜その方策を探った。たどり着いた結論は、プロイセンに対抗できる強力な軍隊の養成、そのための国家財政の再建、そのための中央集権制度の確立。優れた助言者が登用された。因縁のシュレージエン出身の下級貴族ハウクヴィッツ伯爵。1748年以降のオーストリアにおける内政の大改造は、その大半がハウクヴィッツの発想に基づくものといっていい。彼のプランの骨子はこうだ。これまで各地方の貴族や領主たちが、皇帝の意志を顧みず、勝手放題に支配していたのを、国家が全権限を掌握し、君主の決定がそのまま国家全域に伝達されるような体制に変革する。つまり、前近代的な封建制度を中央集権体制に改めるということ。そのためにウィーンに中央執行機関を設置し、国家全体の内政、税制を掌握して、そこから派遣された官吏が各州の事務を取り扱う。こういう内容だった。
マリア・テレジアはハウクヴィッツの具申した改革案に準拠しながら改革に着手。まず実施したのがオーストリアの住民調査。あらゆる都市、町村、教区で男・女・子どもの数が調査された。人間ばかりではない。牛馬など家畜まで調べ上げられた。そしてそれによって正確な数字が決まり、公平に課税がなされるようになった。反発は大きかった。チロル州などでは暴動に近い大騒動が発生。しかし、マリア・テレジアは断固遂行。ただし、強引にねじ伏せるといった強硬手段はとらず、臨機応変で、大勢に関係ないことであれば譲歩する余裕も見せた。司法と行政の分離も図られた。従来は、領主たちの一存で、些細な罪を犯した者、その怒りに触れた者、その意に従わなかった者は、打ち首や国外追放を覚悟しなければならなかった。領主の恣意に震え脅えていた哀れな住民や農民は、その憂いから解放された。医療制度も刷新。当時の外科医は、病人とあらば、意味もなく瀉血。出産後の女性は穢れ多きものとして陽のささぬ奥の小部屋で数十日を過ごさねばならず多くが産褥死。それらも、多数の病院建設、衛生制度の向上によって改善され死亡率は激減した。教育制度でも大改革が断行された。それまでは貴族の子弟が個人的に家庭教師によって教育されるばかりで、その他の大多数は文盲。それが、小学校が新設され、義務教育が実行された。特筆すべきは、ローマ教会との対決。マリア・テレジア自身はきわめて敬虔なカトリック信者だったが、オーストリアの近代化のためにずば抜けて多くの所領を有し、しかも治外法権、無税の教会関連施設にもメスを入れた。修道院の新設を禁止し、巡礼や儀式の回数を制限し、教会の所領にも課税した。
以上の内政・税制改革によってオーストリアは前代に比して3~4倍の増収。その大半が新設軍隊の養成に宛てられた。ウィーンの南のノイシュタットに兵学校を創設。そこでは貴族の子弟と職人や農民の息子たちが机を並べて、同じ兵学の教科が教えられた。将校や下士官を養成するための士官学校(「テレジアーヌム」)も創設された。一般の兵士のために、以前より上等の兵舎や傷病兵を収容する施設が設けられた。軍隊内の旧弊を改善するため、笞刑(上官による暴力)が廃止された。大砲や銃もすべて新式のものに取り替えられた。マリア・テレジアは軍隊の演習や閲兵には必ず姿を見せ、兵士たちにも気軽に声をかけた。さらに、功績の著しい将軍のために、「マリア・テレジア勲章」を創設し、女帝手ずから授与した。
こうして、アーヘンの和から8年たった1756年には、女帝は少なくとも軍隊に関する限り、かなり自信をもってプロイセンに臨める態勢を築きあげていたのである。
(ハンガリー王の王冠「聖イシュトヴァーンの王冠」)
(ボヘミア王の王冠「聖ヴァーツラフの王冠」)
(「神聖ローマ帝国皇帝冠」ウィーン ホーフブルク宮宝物館 )
(フリードリヒ・ヴィルヘルム・フォン・ハウクヴィッツ)
(ダウン将軍)軍制改革を実施
(「テレジアーヌム」)現在
(「マリア・テレジア」ハンガリー国立博物館 ブダペスト)
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