「オーストリア継承戦争」③「女帝」マリア・テレジア誕生

  マリア・テレジアがハプスブルクの家督をつぎ、オーストリア継承戦争が始まった時の状況を彼女自身こう語っている。

  「金も、信用も、軍隊も、自らの経験も、知識もなく、その上さらに助言するものもいない」

  「私はまっ裸で玉座についたのです。」

 歴史に名を残した人物で、最初から恵まれた環境の下で権力の頂点に立ったものなど知らない。ユリウス・カエサルしかり。エリザベス1世しかり。ナポレオンしかり。いずれも、あきらめることを知らず、己を信じ、状況を冷徹に見極め、絶望的とも思える状況を突破していった。

 マリア・テレジアも当初はウィーン駐在各国大使たちが「大公女は何も知らない。無邪気な少女にすぎない。」と本国に書き送った存在にすぎなかった。この時マリア・テレジア23歳。父カール6世は女婿フランツに国家の政治を委任するつもりだったため、彼女には政治、統治について何も伝授しなかった。しかも3人の幼子をかかえ、4人目を妊娠中。金もない。1683年の第二次ウィーン包囲以降も継続されたオスマン・トルコとの戦いで国庫は空になっていた。軍隊は、ドイツ人、イタリア人、チェコ人などの諸民族からなる混成部隊の上、彼らを統率する優れた将軍を欠いていた。国民の中から若く力強い兵士を選抜し、彼らを鍛え上げて精強部隊を養成しているプロイセンとはまるで異なっていた。 そのプロイセンはバイエルン、ザクセン、フランスと四国同盟を結びオーストリアに襲いかかった。連合軍の筋書きはこうだ。プロイセンは強奪したシュレージエンを確保し、バイエルンは念願の神聖ローマ帝国の帝冠を手中にする。またザクセンはチェコ南部のモラヴィアを獲得し、フランスはハプスブルク領ネーデルラントを得る。マリア・テレジアにはハンガリー女王の身分だけ保証してやる。

 こんな四面楚歌の状況をマリア・テレジアはどう打開したか?なんとハンガリーに乗り込んでそこの貴族たちに援助を求めようとしたのだ。それは常識から考えれば「狂気の沙汰」だった。ハンガリー王国は1526年からハプスブルク領になっていたものの、ハプスブルクの統治を嫌う風潮が絶えたことがなかった。また逆にオーストリア人のハンガリー人に対する不信の念も強い。ウィーン人にとって彼らは邪教徒トルコ人の先兵であり、これまで幾度となく惨禍を蒙ってきた憎い奴らだった。

 しかし、マリア・テレジアはその冷徹な眼で見抜いた。ハプスブルクが生き残る道は彼らに頼るしかないことを。身重の体で日々乗馬の練習に打ち込む。騎馬民族ハンガリー人の気持ちをつかむためだ。そして、ハンガリーの首都プレスブルク(現在のブラティスラバ)に乗り込む。戴冠式をすませたうえで、ハンガリー議会に臨む。オーストリア人に根深い不信の念を抱く議会は、容易なことでは女王の要請に応じようとしない。何度も話し合いが重ねられ、交渉が続けられた。そして5カ月後、ついに女王の誠意が通じる。幼子を抱きながら「この子を抱いた私を助けられるのはあなたたちだけなのです」と訴える女王に、彼らは答えた。「我々は我が血と生命を女王に捧げる」と。こうしてハンガリー議会は10万人の軍隊と多額の軍資金の提供を約束した。これによって弛緩していたオーストリア軍に核ができ、それを中心として全体の統一が生まれた。オーストリアにも、ようやくプロイセン軍と対等に渡り合える態勢が整ったのである。

(「マリア・テレジアに忠誠を誓うハンガリー貴族たち」)

(「マリア・テレジアに忠誠を誓うハンガリー貴族たち」)

(ブダ城)ブダペスト

ハンガリー貴族の支援に報いてマリア・テレジアが再建(1770年)

(ハンガリー女王としてのマリア・テレジア)

(「マリア・テレジア騎馬像」ブラティスラバ)

(「マリア・テレジア騎馬像」ブラティスラバ)

(リオタール「マリア・テレジア 1743~45」マイヤー・ファン・デン・ベルグ美術館 アントウェルペン)

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