「スペイン継承戦争とプロイセン王国」
プリンツ・オイゲンは3人のハプスブルク家の皇帝に仕えた。レオポルト1世とその子ヨーゼフ1世(長男)、カール6世(次男)である。このバロック三帝は、三十年戦争で地に墜ちたハプスブルク家を再びヨーロッパの列強に返り咲かせた、プリンツ・オイゲンの力を借りて。1702年からハプスブルク家は、イギリス、オランダの支援を受けてブルボン家のフランスとスペイン継承戦争を戦っていた。この戦争中の1705年にレオポルト1世が亡くなり、長男ヨーゼフ1世が皇帝となる。先帝とは似ても似つかぬ、意気軒昂で自負心の強い皇帝。スペインにあってフランス軍と戦っていたのは皇帝の実弟カール。戦況は彼にとって有利に展開。このままいけばカールは夢にまでみたスペインの王冠を手中にできはずだった。しかし、その時予期せざることが起きる。ヨーゼフ1世が急逝したのだ。原因は天然痘。イギリス、オランダの態度は急変。カールが皇帝となりスペイン王にまでなっては、かつてのカール5世の世界帝国の再来。結局スペイン継承戦争は、王位はフランス・ブルボン家にわたる。ただし、スペイン、フランス両国の統合は許されない、という条件で(イギリス、オランダにとってフランスが強大になりすぎるのも困る)。
ところで、スペイン継承戦争に際して、その後のヨーロッパ史、世界史にとって大きな影響力を持つことになるある国が誕生した(1701年)。プロイセン王国である。その経緯はこうだ。1700年11月16日というスペイン継承戦争前夜に皇帝レオポルト1世とブランデンブルク選帝侯フリードリヒ3世との間で条約があわただしく結ばれた。その内容は以下の通り。
①ブランデンブルグは、戦端が開かれれば直ちに皇帝に8千の軍隊を提供する
②皇帝レオポルト1世は、選帝侯がプロイセン王を名乗ることを承認する
こうしてブランデンブルク選帝侯フリードリヒ3世はハプスブルク家の皇帝の証人のもと晴れてプロイセン王フリードリヒ1世に即位。プロイセンは、常備軍・租税制度・官僚制を整備し、領邦等族と呼ばれる領内の諸身分の力を弱めて、国王権を高めることに成功する。中央行政制度が整備され、貴族は軍人・官僚として国家に奉仕する存在となる。さらに国内では重商主義的経済政策がとられ、農業・商工業を振興するとともに、カトリック諸国から追放されたプロテスタント(1685年、ルイ14世は「フォンテーヌブロー勅令」で信仰の自由を認めた「ナントの勅令」を廃止したため、多くのプロテスタントが国外に脱出した)を大規模に受け入れた。
こうした改革の成果を享受したのが、第3代プロイセン国王フリードリヒ2世(大王)。彼はカール6世が亡くなる(1740年10月)と、後を継いだマリア・テレジアのオーストリアに襲いかかる。「近世に入って最もセンセーショナルな犯罪」(イギリスの歴史家グーチ)と呼ばれるオーストリア継承戦争の勃発である。
(プロイセンの領土)
(フリードリヒ・ヴィルヘルム・ヴァイデマン 「フリードリヒ1世」ベルリン=ブランデンブルク・プロイセン宮殿・庭園財団)
(アントワーヌ・ペスヌ「フリードリヒ2世」ベルリン絵画館)
(「皇帝ヨーゼフ1世」シェーンブルン宮殿)
(ヨハン・ゴットフリート・アウエルバッハ「カール6世」ウィーン軍事史博物館)
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