「プリンツ・オイゲンとルイ14世」
なぜウジェーヌ(プリンツ・オイゲン)は、フランス貴族でありながら、フランスと敵対していたハプスブルク家に仕官したのか?よく言われる理由はこうだ。ウジェーヌは長男ではなかったため父親の伯爵位を継げない。貴族の次男以下は、軍人になるか僧侶になるしか出世の道はない。オイゲンは伯父からケルンかリエージュの聖堂参事会員の地位を提案されるが拒否。軍人となる道を選ぶ。そこで、ルイ14世が愛妾に産ませた娘と結婚して王の婿となっていた従兄弟のコンティ王子ルイ・アルマンに、ウジェーヌに騎兵一個中隊を与えてくださるよう、王に請願してもらう。しかしルイ14世はこの申し出を拒絶。王はウジェーヌのことを評価していなかった。
「このろくでなしの小男は、せいぜい僧職に満足すべきであって、軍人としてはまったく見込みがない」ウジェーヌはフランスと国王を捨てる決意を固めた。
しかし、これだけでは、ウジェーヌが生涯にわたってフランスと戦い続けた理由としては弱い。別の要因も働いていた。それは、自分の母を逆境においやったフランスの宮廷と国王に対する怨念だ。ルイ14世は1660年、スペイン王女と結婚するが、ウジェーヌの母オランプは伯父マザランのはからいでマリー・テレーズ王妃の「大奥総取締り」に就任。王の寵愛を受けたオランプは、さながら女王のように宮廷社交界に君臨する。しかし愛妾の地位はやがてルイーズ・ド・ラ・ヴァリエール、さらにはモンテスパン夫人へ移る。国王は、莫大な収入を伴う「大奥総取締り」の地位をモンテスパン夫人に譲るようにオランプに頼むが彼女はこれを拒否。モンテスパンという強敵をつくってしまう。その後、オランプの夫ソワソン伯爵が亡くなると国王は、伯爵のもっていた官位のうち、シャンパーニュ太守の職はモンテスパン夫人の兄弟に、そしてスイス近衛連隊長の職はモンテスパン夫人の息子メーヌ公(わずか3歳!)に与えてしまった。国王の寵愛がモンテスパン夫人に移ってしまったことは明白。当時10歳のウジェーヌ(オイゲン)もこの屈辱的措置は骨身にしみたことだろう。
そして1680年初め、最悪の事態が訪れる。その頃パリで上流階級の家族が近親者によって毒殺される事件がいくつか発生。その中心人物として逮捕されたのがラ・ヴォワザン。彼女は、表向きの職業は占い師・助産師だったが、裏では堕胎業、黒魔術、毒薬の製造・販売・輸出も行っていた。この人物の口から殺人事件の首謀者としてソワソン伯爵夫人(オランプ)の名前が出たのだ。オランプの敵対者陸軍大臣ルーヴォワは1680年1月22日、この証言を国王に報告し、翌日、逮捕状を発した。1月24日、ブイヨン公から「国王がこのままフランスを退去するかバスティーユ監獄に送られるか、二つに一つを選ぶように言っている」と聞かされたオランプは、無罪を主張したものの、亡命を決意する。裁判で争っても、敵がモンテスパン夫人、それと組んだ陸軍大臣ルーヴォワでは、偽の証人をたてオランプを有罪にすることぐらい朝飯前だということが分かっていたからだ。
ネーデルラントへ亡命した後も、ルーヴォワの迫害は続く。オランプが魔法使いで人殺しだといううわさを、ネーデルラントに広めたのだ。オランプはイギリスやスペインの王室を通じて、無実を訴えるとともにフランスへの帰還をはかったが、永久に許されることはなかった。1708年10月10日、ネーデルラントの地でその野心に満ちた生涯を閉じる。このような母オランプの人生を抜きにしては、プリンツ・オイゲンが祖国を捨て(1683年)ハプスブルク家に出仕し、生涯にわたって故国フランスと戦い続けた背景は語れないと思う。
(「プリンツ・オイゲン騎馬像」ホーフブルク宮 新王宮前ヘルデンプラッツ)
(「プリンツ・オイゲン騎馬像」ホーフブルク宮 新王宮前ヘルデンプラッツ)
(プリンツ・オイゲン公」カンブレー美術館)
(ピエール・ミニャール「オランプ・マンシーニ」オイゲン公の冬の館)
(「オイゲン公の冬の宮殿」ウィーン)
(「モンテスパン夫人」ヴェルサイユ宮殿)ルイ14世の公式寵姫として一時期絶大な権力を持った
0コメント