「オーストリア継承戦争」①

 カール6世は嫡男に恵まれなかった。長男は誕生したが、わずか半年で息をひきとる。その後生まれたのは長女マリア・テレジア、次女マリア・アンナ。三女を生んだころから妃は体調を崩し、もはや出生の可能性がないことが明らかになる。このままでは自分の死後、スペイン継承戦争のような跡目争いが発生することは目に見えている。カールには、他家の男に乗っ取られるような形でハプスブルクを継承させる気持ちなどさらさらない。しかし、「サリカ法典」(神聖ローマ帝国の骨格をなすゲルマン諸法のひとつ)は女子の相続を禁止している。カールはこの禁を冒そうとする。「相続順位法」(長子相続性)の制定だ。英仏などの王朝では嫡子が国家の全域を継承するのが一般的だったのに対し、ハプスブルク家では兄弟で領地を分割するのが伝統だった。そのために他の列強ではすみやかに中央集権体制が確立されたにもかかわらず、オーストリア家ではしばしば兄弟争い、内紛が生じたりして国力がそがれるという弊害が生じた。そこでカールは長子相続性を定めて、代替わりごとの国土の分割を阻止しようとした。もちろんそれは表向きの理由。カールの本来の意図は、「長子」相続性にすることによって、長男がいない場合には長女が相続できるようにすることにあった。

 この「相続順位法」。ハプスブルク帝国内の諸州の議会ではあまねく承認され、王家に反抗的なハンガリーでさえ、条件付きながら同意した。つまり国内法としては成立した。しかし問題は外国政府。「王女による国家の継承は国際政治の常識に反する」、「国際法違反で認められない」といきまく。神聖ローマ帝国内のバイエルンやプロイセンばかりか、イギリス、フランスなどは、ぶしつけに何らかの代償を要求してきた。

 カール6世はそこでの折衝を巧妙に運ぶことができなかった。相続順位法を国際的にも成立させることを強く願うあまり、東インド会社を放棄したり、イタリアやネーデルラントのハプスブルクの領地の一部を割譲するなど、屈辱的な犠牲を払ってようやく列強の承認を取り付けた(プリンツ・オイゲンは 、実質を伴わない紙切れ「相続順位法」を王女に遺すよりも、強力な軍隊と豊かな財源を遺す方がましだとしきりに皇帝に進言したが受け入れられなかった)。

 この相続順位法が発布されたのは1724年。カール6世が亡くなるのは1740年10月20日。その間の1736年にマリア・テレジアは結婚している。カール6世が亡くなるまでに、マリア・テレジアは3人の子を出産。その中に1人でも男子がいれば、相続順位法は不要になり、国家の安泰は保たれた。しかし、いずれも王女だった(長男で後の皇帝ヨーゼフ2世が生まれるのは1741年3月13日。カール6世の死のわずか5カ月後!)。

 王子待望論が強まる中、生まれるのは女子ばかり。市民の中でこんな声がささやかれるようになる。

 「王子が生まれないのは、フランツのせいだ」

 「フランツ公はルイ15世のまわしもので、わざと王子を産ませないようにしているのだ」

 フランツとはマリア・テレジアの夫フランス・シュテファン。出身はフランスの東隣ロレーヌ公国。事情を知らない民衆は、このことだけでフランツをハプスブルクと敵対するフランスのまわしものと思ったのだ。事実はこうだ。フランツとマリア・テレジアが結婚するであろうことが知れ渡った時、最も脅威を感じたのはフランスのルイ15世。これまで親しい隣人と思っていたロレーヌ公国が宿敵ハプスブルクの一部になるなってしまうのだから。そこで、ポーランド人をロレーヌ公に抜擢し、フランツをロレーヌ公国から追い出すことを画策。フランツはマリア・テレジアと結婚するために故国ロレーヌ公国を捨てさせられたのだ。ただし、そのために見返りは用意された。トスカーナである。フィレンツェを首都とするトスカーナ公国は、長らくメディチ家の支配下にあったが、ここでも嗣子が絶えた。フランツは、マリア・テレジアと結婚した後の1737年1月、トスカーナ公に即位した。

 1740年10月20日、カール6世が亡くなる。マリア・テレジアの家督相続を屈辱的犠牲のもとに認めさせた諸国は、いとも簡単に約束を反故にしてオーストリアに襲いかかる。こうしてオーストリア継承戦争が始まる。

 (「皇帝カール6世とその家族」)


(アンドレア・メラー「マリア・テレジア 11歳」ウィーン美術史美術館)

(マルティン・ファン・マイテンス「フランツ1世シュテファン」ウィーン美術史美術館)

(ルイ=ミシェル・ヴァン・ロー「ルイ15世」ヴェルサイユ宮殿)

(フィレンツェの統治者)

(当時のヨーロッパ)

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