「ベルヴェデーレ宮殿とプリンツ・オイゲン」①

  ウィーン市街を見下ろす小高い地にある広大な庭園をもった壮麗なバロック建築「ベルヴェデーレ宮殿」(Belvedereとは「美しい眺め」という意味。1723年完成)。上宮と下宮からなるが、現在は上宮がクリムトやエゴン・シーレなど世紀末美術の代表作を展示した「19世紀・20世紀美術館」、下宮が「中世・バロック博物館」になっている。特に上宮にはクリムトの傑作と評される『接吻』や『ユディト』を筆頭に、世界最大のクリムト絵画のコレクションが展示されている。

 このベルヴェデーレ宮殿をたてさせたのはプリンツ・オイゲン(オイゲン公)。神聖ローマ帝国=ハプスブルク家(レオポルト1世、ヨーゼフ1世、カール6世)に仕えた軍人で、対オスマン戦争、スペイン継承戦争などで活躍し、後のオーストリア=ハプスブルク帝国の基礎を軍事面の成功によって築いた人物として評価され、フランス皇帝ナポレオン1世も古今東西の名将七人の中の一人に数えている。

 プリンツ・オイゲンが頭角を現すのは、「第二次ウィーン包囲」に端を発する大トルコ戦争。1697年の「センタの戦い」(この戦いでオスマン帝国の大宰相以下中枢がことごとく戦死し、オスマン帝国没落の始まりを象徴する戦いの一つにも数えられる。)では5万の兵で8万のオスマン帝国軍と対峙、ヨーロッパ側死者429名に対しオスマン側死者3万という大勝利を挙げ、一躍ヨーロッパ世界における英雄の位置へと躍り出ることになった。その後、1701年から始まったスペイン継承戦争では最初イタリア方面司令官、後に軍権を掌握して軍事と軍政両方のトップとなり、対仏戦争を指揮。そして、イタリアをフランスから奪取。さらにオイゲンはネーデルラント方面へ転戦しネーデルラントでのフランスの支配権を喪失させた。

 このようにプリンツ・オイゲンは対仏戦争でオーストリアの領土拡大に貢献し、ルイ14世統治下のフランスに大打撃を与えた。しかし、実は彼はフランス人。本名を「ウジェーヌ・ド・サヴォワ」というフランス貴族。「オイゲン Eugen」とは「ウジェーヌ Eugène」のドイツ語読みであり、北イタリア一帯を支配していたサヴォワ公国の領主サヴォワ家の分家ソワソン伯爵家の公子 (プリンツ) だった。それどころじゃない。プリンツ・オイゲンの実の父親はルイ14世だという説(かなりその可能性は高いと思う)もあるのだ。それは、彼の母親オランプ・マンシーニがかつてルイ14世の愛人だったからだ。マンシーニと言えば、ルイ14世の初恋の女性とされるマリー・マンシーニの名が浮かぶが、この二人も姉妹。宰相マザランの姪「マザリネット」である。ルイ14世、オランプ・マンシーニ、プリンツ・オイゲン、第二次ウィーン包囲。これらの関りを見ていくと、17世紀後半から18世紀前半のヨーロッパ史が俄然面白く感じられるようになる。

( ベルヴェデーレ宮殿 上宮)

(ベルヴェデーレ宮殿 下宮)

(ベルナルド・ベッロット「ベルヴェデーレ宮殿からのウィーンの眺め」ウィーン美術史美術館)

(グスタフ・クリムト「接吻」オーストリア絵画館 ベルヴェデーレ宮殿)

(グスタフ・クリムト「ユディト」オーストリア絵画館 ベルヴェデーレ宮殿)

(ヨハン・ゴットフリート・ アウエルバッハ「プリンツ・オイゲン騎馬像」ウィーン軍事史博物館)

(ジャコブ・シューペン「プリンツ・オイゲン公」アムステルダム国立美術館)

(ジャック・イグナス・パロセル「センタの戦い」)

0コメント

  • 1000 / 1000