「中秋の名月」②信州更級田毎の月

  今から330年前の今日、貞享5年(1688)8月15日、芭蕉は弟子の越人とともに信州更科に夜到着した。姨捨(おばすて)山の名月を見るためだ。そして有名な次の一句を詠んだ。

       「俤(おもかげ)や 姥(おば)ひとり泣く 月の友」

(更科に来てみると姥捨山の月が美しく照り輝いている。その昔、この月を眺めて独り泣いていた姥の姿が浮かんできて物憂い気持ちになる。今宵はその俤を偲んで月を友としよう。)

 この句を理解するのは、なぜこの地がわざわざ芭蕉が訪れるほどの場所だったのかを知る必要がある。 「姨捨山」は「冠着(かむりき)山」の異名で、そのふもとに信州更級の里(現・千曲市)が広がっている。この一帯には、「田毎の月」(たくさん並んだ狭い田の一枚一枚に、月が映ること)の言葉で知られる姨捨棚田がある。眼下には千曲川が流れ、その対岸に連なる山並みの一つ、鏡台山から昇る月の美しさは日本三大名月のひとつとされる。そしてここは今から千年以上前の平安時代から京の都の人たちのあこがれの対象だった。万葉集をはじめ古代から歌に詠まれてきた地名の中で、読み手がその名を耳にしたり唱えたり見たりしただけで、その美しさや悲しさ、哀れさのイメージを抱かせるようなった名所・旧跡を「歌枕」というが、「更科」は有名な歌枕の地だったのだ。そしてここを世に知らしめたのは「古今和歌集」に載っている次の和歌である。

   「わが心 なぐさめかねつ 更級や 姥捨山に 照る月を見て」(古今和歌集 よみ人しらず)

 (私は自分の心を慰めようとしても慰めきれないでいる。この更科の姥捨山の美しく輝月を見ていると)

 古今集では、旅の途中での望郷の念が詠まれているが、この歌はあとに続く作家たちの創作意欲を大いに掻き立てた。例えば、951年に成立した説話集『大和物語』の中の「姨捨説話」。こんなストーリーだ。

 主人公は信濃の国の更級に住む一人の男。両親と死に別れてからは年取ったおばと一緒に実の親子のように暮らしていたが、男と一緒になった嫁はこのおばをひどく嫌う。ついに嫁はこのおばを山に捨ててきてくれと夫を責めたてるようになる。男はある満月の夜、「山のお寺でありがたい法事がある」とおばをだまして山の奥へ連れ出し、おばを置いて(捨てて)帰ってきてしまう。 しかし、男の心は落ち着かない。山あいから現れた月を見て寝ることができず、そのときに歌ったのが「わが心慰めかねつ更級や姨捨山に照る月を見て」。男は非を悔いておばを迎えにいき、以来この山を姨捨山と呼ぶようになった、という話。

 しかし、芭蕉の句には彼の個人的な体験も込められているようだ。この句の「姨」(年老いた老婆)に芭蕉自身の母親のイメージを重ねている。芭蕉の母親が亡くなったのは、更科への旅の5年前。芭蕉の生誕地は三重県伊賀上野。生家は地侍という下級武士の家柄(その暮らしは農民に近かった)。母は芭蕉が十二歳のときに夫を失ったため、女手ひとつで芭蕉を育てた。家は芭蕉の兄が継ぎ、芭蕉は伊賀上野一帯の領主の一族である藤堂家に仕え、かたわら俳諧の精進を続けていた。そして29歳で、江戸に出る。その後、深川などで多くの門人を従えるほどに力をつけるが、故郷に残してきた母親は、芭蕉が四十歳のときに亡くなる。残念ながら芭蕉は死に目に会うことはかなわなかった。翌年、芭蕉は伊賀上野への帰郷を果たす。その時、母親の遺髪を手にして詠んだのが次の句。

         「手にとらば消ん 涙ぞ熱き 秋の霜」

(白髪に変わっていた母の遺髪を手にとると、熱い涙がこぼれ落ち、秋の霜にも似た遺髪が消えてしまうように思える。)

 この句は字余りだが、芭蕉は自分の思いを表現するのにこの形の句を必要としたのだろう。芭蕉は放浪の人間。母親に迷惑、心配をかけたという気持ちは人一倍強かったと思う。そして芭蕉は、更科に来て母親のことを思い出していたに違いない。「俤や姥ひとり泣く月の友」。この中の「なく」には、捨てられて月の光を浴びながら一人泣いている老婆と、すでに他界してあの世にいる年老いた母の二つのイメージが重なり、「泣く」と「亡く」の両方の意味が込められていると思う。

 (広重「信州更級田毎の月」)実際には、同時に複数の棚田に月が映ることはないんだろうが

(広重「本朝名所 信州更科田毎之月」)

(広重「六十余州名所図絵 信濃 更科田毎月 鏡台山」)

(豊原周延「更科田毎の月」)

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