「中秋の名月」①

  明日は旧暦8月15日、中秋の名月だ。

    「月々に 月見る月は 多けれど 月見る月は この月の月」

 『江戸府内絵本風俗往来』にこんな記述がある。

「十五夜の観月は、名夜の陰晴はかれざるより、十四日の夜月見の宴を開き、詩歌連俳を催すあり。さてまた市中おしなべて団子を製して月に供ふ。柿・栗・葡萄・枝豆・里芋の衣かつぎを、三方盆へうず高く盛あげたり。」

 十四夜は「待宵(まつよい)」とも言う。十五夜の月への想いが伝わってくる。

         「月しろや 膝に手を置 宵の宿」 芭蕉

 「月代(つきしろ)」とは、月がまさに昇ろうとして、東の空が明らむこと。色彩でいうと月白(げっ ぱく)と呼ばれ、月の光を思わせる薄い青みを含んだ白色のことをいうらしい。芭蕉は、月を待ち、また句会が始まるのを待つ一座の緊張感を「膝に手を置く」という措辞で巧みに表現した。  「無月(むげつ)」という言葉も好きだ。単に月が見えないという意味ではない。中秋の名月が、曇って見えないが、どこかほの明るい様子を言う。「雨月(うげつ)」もいい。

         「雨の月 どこともなしの 薄あかり」 越人(えつじん)

 もちろん、中秋の名月はできれば澄み渡った空に明るく輝く月がいい。

         「名月や 池をめぐりて 夜もすがら」 芭蕉

  (仲秋の名月を眺めながら池の周りを歩いていたらいつの間にか夜が明けてしまった。)

 水に映った月を眺めるのもいい。池をめぐるのは、芭蕉ではなく名月ともとれる。また芭蕉は考え事をしながら一晩中池をめぐっていた、と解釈しては芭蕉を十分理解しているとは言えないのだろう。『更級紀行』(俳諧紀行文。元禄元年8月、門人の越智越人を伴い、名古屋から木曽路を通り、更科姨捨山(おばすてやま)の月見をして江戸に帰ったときの旅行記。)の冒頭近くにこんな言葉がある。

          「三更月下入無我」(さんこうげっかむげにいる)

          (真夜中に、月の光の下で無我無心の境地に入る)

 芭蕉は名月を眺めながら池をめぐっていて、自然、宇宙と一体となり「禅」の無我無心の境地に至ったことを先の句は詠んでいるのだろう。

 冴えた光を放つ中秋の名月は、くっきりとした影も生み出す。

          「名月や畳の上に松の影」 其角

 この句を題材にしたのが最後の浮世絵師月岡芳年。『月百姿』(月にまつわる和漢の物語や伝承、和歌、謡曲などを題材とした百枚揃いの浮世絵)の中の「名月や畳の上に松の影」。魚河岸生まれの生っ粋の江戸っ子俳人である其角はわずか14歳にして芭蕉に認められ、たちまち高弟のひとりと数えられるようになる。其角の作風は軽妙で庶民的な滑稽さをたたえたものが多く、師芭蕉の枯淡な風情といかにも相容れないものであったため、他の門人からはとやかく言われた。しかし、芭蕉は「私が静寂を好んで細やかに唄う。其角は伊達を好んで細やかに唄う。その細やかなところは同じ流れなり」と誰よりも理解を示したと言う。其角はなにより酒が好きで、早くからぐびぐびやっていた。こんな句もある。

          「十五から 酒をのみ出て けふの月」

 畳の上に映った松の影を眺める美女。芳年は伊達男其角の名句を見事に視覚化した。

 (豊原周延「千代田の大奥 月見の宴」)

(豊国「十二月ノ内 葉月つき見」)

(歌麿「絵本四季花 下 月見の宴」)

(長喜「四季の美人 月見」)

(国貞「幼女四雅之内 月」)

(月岡芳年「月百姿 名月や畳の上に松の影 其角」)

(広重「名所江戸百景 猿若町よるの景」) 名月の影、というとゴッホも影響を受けたこの絵が浮かぶ。

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