「レオポルト1世とマルガリータ」
1683年7月初め、目前に30万のトルコ軍が迫っていることを知った皇帝レオポルト1世は、急ぎ宮廷をパッサウ(ウィーンから200km以上もドナウ川をさかのぼった交通の要地)に移した。廷臣も市民たちも浮足立ち、ウィーンの内外がパニックに襲われる中、レオポルト1世は冷静さを失っていなかった。彼は危急のときにうろたえない強さを持っていた。「まっ先に、宮廷人ともども逃げ出した」わけではない。
外見だけで判断すると確かにぱっとしない。馬面ともいっていい面長の顔貌、大きな顎、垂れた鷲鼻、突き出た下唇。ハプスブルク家の特徴が極端にまで現れている。しかし、皇帝の次男として生まれたレオポルトは、自由にのびのび育ち、性格は穏やかで陽気。聖職者になるべく勉学を積んだ第一級の教養人だった。皇帝には実兄がフェルディナント4世として即位するはずだったが、その兄が即位2カ月後に急逝。そのため図らずも王位についた。そのため、自らの政治手腕を過信することなく、才能ある臣下を選んで信頼して任せた。人を見る目は優れていたようだ。
ウィーン攻城戦でトルコの野望を打ち砕いたレオポルト1世は、対トルコ戦用の軍事費を惜しみなく使って首都ウィーンの改造にとりかかった。フランスのルイ14世と張り合いたかった(そのためヴェルサイユ宮殿の向こうを張ってシェーンブルン宮殿の建造に着手)。カトリック世界の盟主としての自負もあった。バロックの代表的な建築家エルラッハやヒルデブラントを動員して、巨大建築にとりかからせた。教会や宮殿、泉やオペラや祝典でハプスブルクの栄光を包もうとした。皇帝自身もチェンバロやヴァイオリン、フルートの演奏もして、作曲が趣味という無類の音楽好き。それもオペラやオラトリオ、器楽曲、バレエ音楽というように、多方面にわたってジャンルも広く、その記録が音楽古文書館に数多く残されている。レオポルトは「バロック大帝」と呼ばれた。
豪華な祝祭は、第二次ウィーン包囲以前から始まっていた。1666年12月5日のスペイン王女マルガリータとレオポルト1世の婚礼は、国をあげての祝祭がなんと延々2年も続けられた。花火、オペラ、芝居、コンサート、仮面舞踏会、馬上試合。もちろん宮廷人たちもオペラや芝居に参加し、楽器を演奏した。この祝宴は、末代まで語り継がれる、ヨーロッパ最大のフェスティバルになった。
ところでレオポルト1世の最初の妃となったスペイン王女マルガリータ。ベラスケスの絵で広く知られる。3歳、5歳、8歳の肖像画がウィーン美術史美術館にある。またプラド美術館にある有名な「ラス・メニーナス(女官たち)」の中心に描かれているのも5歳のマルガリータである。彼女は幼くして叔父(母の実弟)であり従弟にもあたるオーストリア・ハプスブルク家のレオポルト1世の花嫁に定められ、15歳で結婚。夫婦仲はよかったようだが、彼女が産んだ男児はすべて早世し、彼女自身も21歳で亡くなってしまう。度重なる近親結婚の弊害が原因だろう。
(ベラスケス「ラス・メニーナス」プラド美術館)部分
(ベラスケス「ラス・メニーナス」プラド美術館)全体
(シェーンブルン宮殿)
(グイド・カニャッチ「レオポルト1世」ウィーン美術史美術館)
(ヤン・トーマス「芝居の衣装を着けたレオポルト1世」ウィーン美術史美術館)
(ヤン・トーマス「芝居の衣装を着けたマルガリータ」ウィーン美術史美術館)
(ベラスケス「バラ色のドレスのマルガリータ・テレサ」ウィーン美術史美術館)1653 3歳
(ベラスケス「白いドレスのマルガリータ・テレサ」ウィーン美術史美術館)1656 5歳
(ベラスケス「青いドレスの王女マルガリータ・テレサ」ウィーン美術史美術館)1659 8歳
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